世界は思考でできている

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第一話 世界は思考でできている

 神谷隆司は、六十五歳だった。

 ただし、鏡の中の男は六十五には見えない。せいぜい五十代前半。肌には妙な艶があり、背筋は伸び、腹も出ていない。目だけが、年齢を隠せなかった。若い肉体の奥に、六十五年分の記憶が沈んでいた。

 東京の夜景が、窓の外で無数の光になって揺れている。

 地上五十二階。リビングだけで、昔住んでいた団地の一室が三つは入る。壁には海外の画家の絵がかかり、テーブルの上には、一本数十万円のワインが置かれている。だが隆司は酒を飲まない。若返りを始めてから、身体が余計なものを受けつけなくなった。

 資産は、一兆円を超えていた。

 数字にすると滑稽だった。一兆。若い頃の自分に言っても、きっと信じなかっただろう。いや、若い頃の自分なら、たぶん信じた。隆司は昔から、根拠のない確信だけはあった。

 思考は現実になる。

 最初にその言葉を知った時、隆司は笑った。そんな都合のいい話があるか、と。しかし同時に、胸の奥で何かが鳴った。それは真新しい思想に出会ったというより、昔から知っていたことを誰かに言葉にされたような感覚だった。

 それから隆司は、願った。

 金が欲しい。健康が欲しい。自由が欲しい。誰にも命令されない人生が欲しい。時間が欲しい。若さが欲しい。

 そして、ほとんどが手に入った。

 投資は不気味なほど当たり、事業は拡大し、宝くじでは十二億円を的中させた。偶然と言えば偶然だった。だが偶然が何度も続けば、人はそれを偶然とは呼ばなくなる。

 医者は、隆司の検査結果を見て首をひねった。

「神谷さん、本当に六十五歳ですか」

 そう言われた時、隆司は笑わなかった。笑えば、かえって嘘くさくなる気がした。

 彼は知っていた。

 肉体もまた、固定された物質ではない。エネルギーが、ある瞬間に形を取っているだけだ。老いも、病も、現実も、誰かが強く信じ続けた像にすぎない。

 世界は、固くない。

 人生も、一本ではない。

 そのことに気づいた人間から、現実は少しずつ輪郭を失っていく。

 

 

 テーブルの上で、スマートフォンが震えた。

 長女の香織からだった。

『体調、大丈夫?』

 たったそれだけの文面だった。

 隆司はしばらく画面を見つめた。返信欄に指を置き、「大丈夫」と打った。だが送信する前に消した。次に「ありがとう」と打った。それも消した。

 結局、彼はこう返した。

『大丈夫。ありがとう』

 送信したあと、妙に疲れた。

 娘に対してさえ、言葉を選びすぎる。昔からそうだった。愛していないわけではない。むしろ逆だった。愛しているからこそ、どう表現していいか分からなかった。

 金は増やせた。

 肉体は若返らせた。

 欲しい現実は、いくらでも引き寄せられた。

 だが、娘との距離だけは、思い通りにならなかった。

 隆司は窓際に立った。夜景の光が、ガラスに自分の顔を重ねて映す。若返った自分と、老いた記憶が重なる。

 ふと、体育館の匂いがした。

 ありえないことだった。ここは高層マンションの最上階に近い部屋で、床は磨かれた石材、空調は一定、外気の匂いなど入ってこない。

 それでも、確かにした。

 古い木の床。ワックス。汗。昼休みのざわめき。校舎の影。春でも夏でもない、あの頃特有の、生ぬるい空気。

 中学二年。

 隆司は、佐伯美和に出会った。

 いや、出会ったというより、撃たれたのだと思う。

 初めて彼女を見た時、世界の彩度が変わった。大げさではない。あの日を境に、隆司の世界には「女」というまったく別の宇宙が開いた。

 男と女は、同じ人間でありながら、どこか決定的に違う。

 若い頃は、その違いにただ振り回された。結婚して、子供を作り、同じ家で暮らし、同じ食卓につき、それでも分かった気になっただけだった。美和のことを理解したと思った瞬間ほど、実際には何も見えていなかったのかもしれない。

 あの昼休み、美和は友人たちと体育館前で笑っていた。

 何を話していたのか、正確には覚えていない。ただ、彼女たちは自分たちの成長を面白がって、はしゃいでいた。子供の無邪気さと、女になっていく身体のまぶしさが、危ういほど自然に混ざっていた。

 美和は胸を張り、得意げに笑っていた。

 その姿を見た瞬間、隆司は足を止めた。

 可愛い、という言葉では足りなかった。

 綺麗、でも足りなかった。

 生命そのものが、形を取って立っているように見えた。

 彼女は自分の眩しさを知らなかった。だからこそ、眩しかった。計算も媚びもなく、ただそこに存在していた。その存在が、隆司の内部で何かを破壊した。

 

 

 あの時からだ。

 隆司は、本当の意味で「欲しい」と思うことを知った。

 金ではない。

 地位でもない。

 勝利でもない。

 あの光の中に入りたかった。美和が笑っている世界に、自分も存在したかった。

 それから五十年以上が過ぎた。

 美和とは結婚し、二人の娘を授かり、そして離婚した。

 思えば、彼はあまりにも多くを手に入れた。だが、最初に欲しいと思ったものだけは、最後まで掴みきれなかったのかもしれない。

 スマートフォンが再び震えた。

 今度は次女の真奈だった。

『お父さん、また若返ってない? この前の写真、ちょっと怖いよ』

 隆司は小さく笑った。

 怖い。

 そうだろうな、と思った。

 人は、自分の信じている現実から外れたものを見ると、奇跡とは呼ばずに恐怖と呼ぶ。

 隆司は返信しなかった。

 かわりに、窓に映る自分の目を見た。

「世界は思考でできている」

 声に出すと、その言葉は広い部屋の中で頼りなく響いた。

 だが、もし本当にそうなら。

 なぜ自分は、いまだに中学二年の昼休みに囚われているのか。

 なぜ一兆円を得ても、十二億円を当てても、若返っても、たった一人の女の笑い声から逃れられないのか。

 夜景が揺れた。

 一瞬、ガラスの向こうに、セーラー服の少女が映った気がした。

 隆司は息を止めた。

 もちろん、そこには誰もいない。

 ただ、東京の夜があるだけだった。

 しかし彼には分かっていた。

 存在しているものだけが、現実ではない。

 認識されなかったもの。

 選ばれなかった人生。

 言えなかった言葉。

 抱きしめなかった時間。

 それらもまた、どこかで形を持っている。

 隆司は目を閉じた。

 暗闇の中で、美和の笑い声がした。

 あの昼休みは、まだ終わっていなかった。

第二話 中学二年の衝撃

昭和五十一年の春だった。

四月の空気はまだ少し冷たく、朝の校庭には湿った土の匂いが残っていた。

神谷隆司は、その頃、どこにでもいる中学二年生だった。

背は平均より少し高い程度。勉強もそこそこ。運動もそこそこ。女子と話すのは苦手で、クラスの中心人物になるタイプでもない。

ただ、ぼんやりと、

「自分はいつか何者かになる」

という根拠のない感覚だけは持っていた。

それが何なのかは分からなかった。

社長かもしれない。
作家かもしれない。
世界を変える何かかもしれない。

だが現実の彼は、朝のホームルーム前に友人と漫画の話をし、昼休みには購買のパンを奪い合う、ごく普通の少年だった。

その日もそうだった。

四時間目の数学が終わり、昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室は一気に騒がしくなった。

「神谷、焼きそばパン行くぞ!」

友人の西田が叫び、隆司は立ち上がった。

廊下には、同じように購買へ向かう男子たちが流れ込んでいた。窓から差し込む春の日差しが、埃を白く浮かび上がらせている。

その時だった。

 

 

ふと、体育館のほうから女子たちの笑い声が聞こえた。

甲高く、無防備で、妙に耳に残る笑い声だった。

隆司は何気なくそちらを見た。

そして、足が止まった。

体育館前のコンクリートの小さなスペースに、数人の女子が集まっていた。

セーラー服。

白いソックス。

春風。

その中心に、佐伯美和がいた。

当時の隆司は、まだ「美人」という概念をちゃんと理解していなかった。

テレビのアイドルを見て可愛いと思うことはあった。しかし、それは遠い世界の話だった。

現実の同級生が、
ここまで眩しく見えるとは知らなかった。

美和は笑っていた。

心の底から楽しそうに。

周囲の女子たちも大笑いしている。

「絶対、私のほうが大きいって!」

美和がそう言って胸を張ると、友人の一人が、

「うそだぁ!」

と叫んだ。

次の瞬間、美和は得意げな顔をして、さらに胸を突き出した。

その拍子に、セーラー服の胸元のホックが危うく外れそうになり、女子たちは悲鳴のような笑い声を上げた。

「やばっ! 外れる外れる!」

「ほら見て! やっぱ私の勝ち!」

「意味わかんないって!」

馬鹿みたいな会話だった。

本当に、ただそれだけのことだった。

だが、その光景は、隆司の脳に焼き付いた。

今でも忘れられない。

六十五歳になった今でも。

なぜなのか、自分でも分からない。

胸が大きかったからではない。

いや、もちろん中学生男子としての衝撃はあった。だが、それだけでは説明がつかなかった。

あの時、隆司が本当に見たものは、

「生命力」

だった。

女という存在が持つ、
圧倒的なエネルギー。

身体が成熟し始め、
本人たちもまだその意味を完全には理解していない、
危うくて、無邪気で、残酷な輝き。

それを初めて目撃したのだ。

世界が揺れた。

少なくとも、隆司にはそう感じられた。

それまで平面的だった現実に、突然、奥行きが生まれた。

女という宇宙。

理解不能な存在。

なのに、どうしようもなく惹かれる存在。

美和は、そんなことを一切自覚していない顔で笑っていた。

そこが恐ろしかった。

もし彼女が男を誘惑しようとしていたなら、まだ理解できた。しかし違った。彼女はただ、楽しくて笑っているだけだった。

なのに、その無意識さが、
男子の世界を破壊するほど強かった。

「神谷?」

横で西田が怪訝そうな顔をした。

「お前、何見てんの?」

「……いや」

隆司は慌てて視線を逸らした。

だが、心臓の鼓動が妙に速かった。

自分が今、
何か取り返しのつかないものを見てしまった気がした。

西田は女子たちのほうを見て、ニヤニヤ笑った。

「あー、佐伯たち、また馬鹿やってんな」

その程度の反応だった。

他の男子も似たようなものだった。

もちろん「エロい」と騒ぐ奴はいた。だが、隆司の感じた衝撃とは違った。

彼だけが、
別のものを見てしまった。

その日の午後、授業内容はほとんど頭に入らなかった。

ノートを取るふりをしながら、
何度も美和の横顔を見た。

窓際の席。

春の光。

頬杖。

シャーペンを回す指。

笑う時に少し細くなる目。

すべてが妙に現実感を持っていた。

逆に、それ以外のものは夢みたいだった。

 

 

先生の声。
黒板。
教室。
未来。

全部ぼやけていた。

放課後、隆司は校門を出たあと、一人で遠回りして帰った。

川沿いの道を歩きながら、
彼はずっと考えていた。

なぜ、自分はあれほど衝撃を受けたのか。

だが答えは出なかった。

今なら少し分かる。

あの日、
隆司は初めて、

「欲望」

を知ったのだ。

ただしそれは、
単純な性欲ではない。

もっと根源的なものだった。

生きたい。

触れたい。

理解したい。

あの笑い声の世界に入りたい。

そんな衝動。

そして同時に、
決定的に理解できないという恐怖。

男と女は、
同じ人間ではある。

だが、まったく別の生き物でもある。

その事実を、
中学二年の神谷隆司は、
まだ言葉にならないまま感じ取ってしまった。

夕方の風が吹いた。

川面がオレンジ色に揺れる。

その時、ふと、
奇妙な感覚が彼を襲った。

今、この瞬間も、
別のどこかに別の人生が存在している。

そんな感覚。

例えば。

今日、美和を見なかった人生。

彼女に話しかける人生。

まったく別の女を好きになる人生。

何も感じずに大人になる人生。

無数の可能性。

だが、
どの人生を選んだとしても、
たぶん自分は、
この日を忘れられない。

そんな確信だけがあった。

空を見上げると、
春の雲がゆっくり流れていた。

世界はまだ、
硬い物質の塊ではなく、
柔らかく揺れる何かに見えた。

神谷隆司の人生は、
あの昼休みから、
静かに狂い始めていた。

第三話 願望ノート

神谷隆司は、昔からノートを書く癖があった。

きっかけは中学三年の冬だった。

受験を控えた教室の空気は妙に重く、誰もが「将来」という見えない怪物に怯えていた。成績。進学。就職。人生。大人たちは、未来には現実的な選択しかないような顔をして話した。

だが隆司は、その頃から違和感を持っていた。

本当にそうなのか。

人間の人生は、
そんなに最初から決まっているものなのか。

世界はもっと柔らかいのではないか。

ある夜、彼は大学ノートの最初のページにこう書いた。

『俺は金持ちになる』

次の行には、

『自由になる』

さらに、

『美和と一緒に生きる』

と書いた。

その文字を見た瞬間、妙な感覚があった。

ただの願望を書いたというより、
未来を先に記録したような感覚。

もちろん、当時の隆司には説明できなかった。

だが彼は、その日から時々ノートを書くようになった。

願望。
理想。
未来。
欲しいもの。

まるで未来の設計図を書き換えるみたいに。

六十五歳になった現在、そのノートは高層マンションの書斎に保管されていた。

革張りの椅子。

間接照明。

窓の向こうには東京湾。

だが隆司の視線は、
古びた大学ノートに向いていた。

紙は黄ばんでいる。

角は擦り切れ、
ところどころに若い頃の筆圧の強さが残っている。

 

 

彼はゆっくりページをめくった。

『年収一千万』

達成。

『社長になる』

達成。

『海外に住む』

達成。

『時間に縛られない』

達成。

『宝くじを当てる』

達成。

隆司は小さく笑った。

自分でも気味が悪いと思う。

偶然では説明できないほど、
実現していた。

若い頃、彼は成功哲学や精神世界の本を読み漁った。

ナポレオン・ヒル。
ジョセフ・マーフィー。
引き寄せ。
潜在意識。

世間は胡散臭いと言った。

だが隆司には、
どれも「当たり前の話」に思えた。

人間は、
自分が強く信じた現実を生きる。

逆に言えば、
無意識に自分を否定している人間は、
否定された現実を引き寄せる。

それだけのことだ。

テレビ。
広告。
世間。

世の中は、
「お前は足りない」
という声で溢れている。

もっと金を使え。
もっと痩せろ。
もっと成功しろ。
もっと認められろ。

不満を植え付けられ続けた人間は、
不足の人生を生きる。

だから隆司は、
若い頃から意識的に頭の中の声を変えた。

「俺はできる」

「俺は豊かだ」

「俺は自由だ」

「俺は価値がある」

最初は嘘っぽかった。

だが、人間の脳は繰り返された言葉を現実だと認識し始める。

そして現実が変わる。

本当に変わってしまう。

隆司はページをめくった。

そこには二十代の頃の文字があった。

『俺は老けない』

彼はしばらくその文字を見つめた。

普通なら笑う。

馬鹿みたいな願望だ。

だが現実には、
彼の肉体は異様な変化を起こしていた。

五十代後半から、
老化が止まり始めた。

白髪が減った。

肌が変わった。

疲労感が消えた。

医師たちは、
食生活や運動の影響だと言った。

だが隆司には分かっていた。

違う。

もっと根本的なところで、
自分は身体を書き換えている。

老いとは、
集合意識だ。

人間は、
「老いるものだ」
という巨大な思い込みに従っている。

だから老いる。

逆に言えば、
その認識から外れれば、
肉体も変わる。

少なくとも、
隆司はそう信じていた。

 

 

ページをさらにめくる。

すると、
一つだけ、
妙に筆圧の強い言葉があった。

『家族を幸せにする』

隆司の指が止まった。

静かな部屋。

遠くで車の音がする。

彼はゆっくり息を吐いた。

金は得た。

成功した。

若返った。

だが。

本当に、
家族を幸せにできたのか。

美和は離婚した。

香織とは距離がある。

真奈も、
どこか遠慮している。

何が足りなかったのか。

隆司は時々、
分からなくなる。

成功とは何なのか。

思考で現実を変えられるなら、
なぜ愛だけは、
こんなにも不完全なのか。

その時だった。

突然、
ノートのページが勝手にめくれた。

エアコンの風かと思った。

だが違った。

窓は閉まっている。

部屋の空気は動いていない。

それでもページは、
ゆっくりと進み、
ある箇所で止まった。

隆司の目が細くなる。

そこには、
高校時代の文字があった。

『俺は美和を失う』

隆司の背中に、
冷たいものが走った。

第四話 振動

世界は振動でできている。

神谷隆司が最初にその考えに触れたのは、三十代の終わり頃だった。

当時の彼は、まだ今ほどの成功者ではなかった。

会社経営は軌道に乗り始めていたが、不安定だった。社員の給料。銀行。取引先。家庭。二人の娘。責任が増えるほど、心は逆に擦り減っていった。

夜中に目が覚めることも増えた。

自宅マンションのベランダで煙草を吸いながら、

「このまま失敗するかもしれない」

と考える夜もあった。

すると不思議なことに、
本当に悪いことが起きる。

取引が飛ぶ。
人が辞める。
金が消える。

逆に、
妙に気分が軽い時には、
信じられないほど物事がうまく進む。

偶然だと思っていた。

だが、
偶然にしては出来すぎていた。

ある日、
古本屋で一冊の洋書と出会った。

タイトルは忘れた。

だが内容だけは覚えている。

『思考には固有の振動がある』

という一文。

その瞬間、
隆司の中で何かが繋がった。

ああ、そういうことか。

世界は固定された物質ではない。

もっと曖昧で、
柔らかく、
影響し合っている。

人間の思考もまた、
一種の波なのだ。

怒りには怒りの波長。

恐怖には恐怖の波長。

愛には愛の波長。

不足には不足の波長。

そして、
人は自分が最も強く発している波に近い現実を受け取る。

 

 

隆司はその頃から、
徹底的に自分の思考を観察し始めた。

すると気づいた。

人間の頭の中では、
一日中、
妙なBGMが流れている。

「俺には無理だ」

「失敗する」

「嫌われる」

「足りない」

「もっと頑張らないと価値がない」

世界中の人間が、
そんな自己否定を再生し続けている。

しかも本人は気づいていない。

それは広告にも似ていた。

世の中は、
常に不足感を植え付けてくる。

お前はまだ足りない。

もっと買え。

もっと競え。

もっと焦れ。

そうやって、
人間の波動を不足側へ固定していく。

だから隆司は、
意識的に外部情報を減らした。

テレビを捨てた。

ニュースを見なくなった。

他人の不安を遮断した。

すると、
現実が変わり始めた。

本当に。

信じられないほど。

必要な人間と偶然出会う。

金が流れ込む。

タイミングが噛み合う。

宝くじまで当たった。

最初は怖かった。

自分の思考が、
現実を歪めている気がした。

だが次第に、
それは確信へ変わった。

世界は、
人間が思っているほど固定されていない。

その夜、
隆司はリビングで一人、
ワインも飲まずに夜景を見ていた。

六十五歳。

資産一兆円。

若返った肉体。

普通なら、
幸福の完成形に見える。

しかし彼は、
時々、
現実感を失う。

本当に自分は、
この世界に存在しているのか。

窓ガラスに映る自分の顔が、
時々、
別人に見える。

いや、
別世界線の自分に。

ある瞬間には、
二十代の自分が重なる。

またある瞬間には、
老人の自分が見える。

肉体が固定されていない。

そんな感覚。

隆司は知っていた。

人間は、
「物体」ではない。

エネルギーが、
一瞬だけ形を持っている現象にすぎない。

椅子も。

床も。

夜景も。

娘たちも。

そして、
自分自身も。

だから、
認識が変われば、
現実も変わる。

だが。

その思想を深めれば深めるほど、
一つだけ説明できないものがあった。

 

 

美和だった。

なぜ、
あの女だけは、
五十年以上経っても、
隆司の内部で圧倒的な実在感を持ち続けるのか。

他の記憶は薄れる。

成功も、
失敗も、
金も、
時間も。

なのに。

中学二年の昼休みだけは、
今も妙に鮮明だった。

体育館前。

春の空気。

笑い声。

セーラー服。

胸を張って笑う少女。

あの瞬間だけが、
夢ではなく「本物」に感じる。

隆司は時々、
考える。

もしかすると、
人生とは、
たった一つの強烈な感情を中心に、
後から組み立てられていくものなのではないか。

だとしたら。

自分の人生は、
あの日の衝撃から、
すべて始まっている。

その時、
スマートフォンが震えた。

画面には、
美和の名前が表示されていた。

離婚して十年以上。

ほとんど連絡など来ない。

隆司は、
しばらく画面を見つめた。

胸の奥で、
何かが揺れていた。

まるで、
遠い過去の振動が、
今になって再び届いたみたいに。

第五話 女という宇宙

神谷隆司は、若い頃からずっと不思議だった。

なぜ男は、
あれほどまでに女に支配されるのか。

理性では説明がつかない。

歴史を見てもそうだった。

英雄。
王。
革命家。
天才。

どれほど巨大な男でも、
女の存在によって狂い、
破滅し、
あるいは生かされてきた。

若い頃の隆司は、
それを単純な性欲だと思っていた。

しかし年齢を重ねるにつれ、
そんな簡単なものではないと分かってきた。

もっと根源的だ。

生命そのものが、
男を女へ向かわせている。

それは恋愛感情ですらないのかもしれない。

もっと古く、
もっと深い、
種としての衝動。

六十五歳になった今でも、
隆司は時々、
女という存在に圧倒される。

特に美和だった。

彼女は特別な美女だったわけではない。

芸能人みたいな派手さはない。

だが、
彼女には「生きている女」の匂いがあった。

それが隆司を狂わせた。

夜のリビング。

高層マンションの窓から見える東京の光。

隆司はソファに深く座り、
スマートフォンを見つめていた。

画面には、
美和から届いた短いメッセージ。

『久しぶり。元気?』

たったそれだけ。

それだけなのに、
胸の奥が静かに揺れる。

離婚して十年以上。

今さら何を話すことがあるのか。

だが同時に、
五十年以上前の中学二年生の自分が、
まだ彼女を見つめ続けている感覚があった。

 

 

時間は、
本当に流れているのだろうか。

隆司は時々、
そう思う。

過去は消えていない。

ただ、
別の場所に存在しているだけだ。

中学時代の美和も、
高校時代の美和も、
母親になった美和も、
離婚届に判を押した美和も、
全部、
同時に存在している。

そして自分は、
その全てを同時に愛してしまっている。

隆司は返信を打ち始めた。

『元気だよ』

消した。

『久しぶりだな』

消した。

『会うか?』

そこまで打って、
指が止まった。

会ってどうする。

もう若くない。

いや、
身体は若い。

そこが余計に気持ち悪かった。

娘たちより若く見える父親。

鏡を見るたび、
現実感が薄れる。

だが、
どれだけ若返っても、
心の奥には老いた孤独が沈んでいる。

隆司はスマートフォンを置き、
窓の外を見た。

世界は光でできていた。

ビル。

車。

信号。

人間。

すべてが振動している。

固定された物質など存在しない。

女も同じだ。

美和という存在も、
「肉体」ではない。

もっと巨大な何か。

生命の中心みたいなもの。

 

 

隆司は昔から、
セックスという行為についても、
妙な感覚を持っていた。

男は、
一瞬の放出で終わる。

だが女は違う。

もっと深く、
もっと長く、
身体全体で快感を受け止めている。

だからこそ、
女は男には理解できない。

理性で会話していても、
身体の奥では、
まったく別の生き物として存在している。

そして男は、
その未知性に惹かれてしまう。

理解不能だからこそ、
支配される。

隆司は二十代の頃、
美和と抱き合った夜を思い出した。

狭いアパート。

安い布団。

夏の汗。

美和は笑いながら、
「暑いね」
と言った。

その笑い声だけで、
世界が完成している気がした。

金も成功も、
何もいらなかった。

なのに人間は、
その幸福の最中で、
別のものを欲し始める。

もっと金を。

もっと自由を。

もっと成功を。

もっと若さを。

隆司もそうだった。

そして、
気づけば、
一兆円を持ちながら、
一人で夜景を見ている。

その時だった。

スマートフォンが再び震えた。

美和からだった。

『今度、時間ある?』

短い文章。

だが、
その文字を見た瞬間、
五十年以上前の昼休みが、
隆司の中で一気に蘇った。

体育館前。

春の風。

笑い声。

胸を張って笑う少女。

世界は、
あの日から、
まだ終わっていなかった。

第六話 最初のデート

神谷隆司が初めて美和と二人で出かけたのは、高校二年の秋だった。

駅前には、
まだ昭和の匂いが残っていた。

古い喫茶店。

レコード屋。

映画館。

アーケード。

夕方になると、
焼き鳥の煙と排気ガスが混ざった空気が街を漂う。

待ち合わせの三十分前、
隆司はもう駅前にいた。

落ち着かなかった。

何度も時計を見る。

髪を触る。

意味もなく自販機で缶コーヒーを買う。

当時の隆司は、
今みたいな自信など持っていなかった。

金もない。

経験もない。

女に慣れてもいない。

ただ、
美和が好きだった。

それだけだった。

改札から美和が出てきた瞬間、
周囲の景色が少し明るくなった気がした。

白いセーター。

細い手首。

少し茶色がかった髪。

「待った?」

美和が笑う。

「いや、今来た」

嘘だった。

一時間近く前からいた。

だが、
そんなことを正直に言えるほど、
まだ大人ではなかった。

 

 

二人は駅前を歩いた。

最初はぎこちなかった。

何を話せばいいか分からない。

沈黙が怖い。

しかし美和は、
不思議と沈黙を苦痛にしない女だった。

「神谷ってさ」

「ん?」

「なんか、いつも難しいこと考えてるよね」

隆司は少し笑った。

「そうか?」

「そう。なんか、宇宙人みたい」

「なんだそれ」

「でも嫌いじゃないよ」

その言葉だけで、
隆司の心臓は一日中暴れ続けた。

喫茶店に入る。

薄暗い店内。

煙草の煙。

古い洋楽。

向かい側に座る美和。

隆司は、
コーヒーの味をほとんど覚えていない。

ただ、
彼女の唇ばかり見ていた。

笑う時。

ストローを吸う時。

話す時。

女という存在の生々しさが、
すぐ目の前にあった。

隆司は時々、
怖くなった。

自分は、
この生き物を一生理解できない気がした。

 

 

なのに、
どうしようもなく惹かれている。

美和はケーキを食べながら、
急に真顔になった。

「神谷ってさ」

「ん?」

「将来、お金持ちになりそう」

「なんで?」

「なんとなく」

美和は笑った。

「でも、なんか寂しいお金持ち」

その言葉に、
隆司は一瞬、
妙な寒気を覚えた。

未来を見透かされた気がした。

もちろん、
高校生の美和にそんなつもりはない。

ただの冗談だったのだろう。

だが、
その言葉は、
六十五歳になった今でも、
隆司の胸に残っている。

店を出たあと、
二人は川沿いを歩いた。

夕暮れ。

赤く染まる空。

風が少し冷たい。

美和が突然、
隆司の手に触れた。

本当に軽く。

しかしその瞬間、
隆司の世界は止まった。

女の手は、
こんなにも柔らかいのかと思った。

同時に、
恐ろしかった。

もしこの手を失ったら、
自分は壊れる気がした。

その時、
隆司は初めて理解した。

恋愛とは、
幸福ではない。

依存だ。

執着だ。

もっと言えば、
生命が別の生命に飲み込まれていく感覚だ。

だから人は狂う。

だから、
何十年経っても忘れられない。

美和は、
夕焼けの川を見ながら言った。

「ねぇ」

「ん?」

「神谷って、ずっと変なこと考えてそう」

「……変なこと?」

「うん。世界の秘密とか」

隆司は笑った。

「考えてるかもな」

「やっぱり」

美和も笑った。

その笑い声を聞きながら、
隆司は思った。

この瞬間が、
一生続けばいいのに。

だが、
人生は、
永遠に続く夕暮れではない。

そのことを、
彼はまだ知らなかった。

第七話 広告の世界

神谷隆司がテレビを捨てたのは、三十八歳の時だった。

まだ娘たちは小さい。

香織は小学校低学年。
真奈は幼稚園。

夕食時になると、
家族四人で狭いリビングに集まった。

その頃はまだ金も今ほど無かった。

中古マンション。

少し古いソファ。

傷だらけのテーブル。

だが、
今思えば、
人生で最も「現実」が濃かった時代だった。

ある夜、
隆司はテレビを見ながら、
急に気分が悪くなった。

CM。

ニュース。

バラエティ。

画面の向こう側から、
無数の「不足」が流れ込んでくる。

お前はまだ足りない。

もっと稼げ。

もっと若くなれ。

もっとモテろ。

もっと勝て。

もっと不安になれ。

そう叫ばれている気がした。

その瞬間、
隆司は気づいた。

世界は、
人間の思考を奪い合っている。

広告の本当の目的は、
商品を売ることではない。

人間を「不足状態」に固定することだ。

不足感を持った人間は、
永遠に消費する。

永遠に焦る。

永遠に他人と比較する。

だから、
社会は人間を静かに不幸へ誘導する。

 

 

隆司は突然立ち上がった。

「え、どうしたの?」

美和が驚いた顔をする。

「これ、もういらない」

そう言って、
隆司はテレビのコンセントを抜いた。

「は?」

「うるさいんだよ」

「何が?」

「全部」

美和は呆れた顔をした。

「また始まった」

その言い方には、
少し笑いも混ざっていた。

昔から隆司は、
時々こういうことを言い出す男だった。

世界は幻想だ。

思考が現実を作る。

人間は洗脳されている。

そんな話を真顔でする。

普通の男なら、
妻に引かれて終わりだろう。

だが美和は、
完全には否定しなかった。

理解していたわけではない。

ただ、
隆司の「変さ」を、
どこか面白がっていた。

「で、テレビ捨ててどうすんの?」

「静かになる」

「それだけ?」

「それだけで十分だ」

隆司は本気だった。

その日から、
彼は意識的に「他人の思考」を遮断し始めた。

ニュースを見ない。

ワイドショーを見ない。

愚痴ばかり言う人間と距離を置く。

そして、
自分の内側の声を観察した。

すると分かってきた。

人間は、
自分の思考だと思っているものの多くを、
他人から植え付けられている。

親。

学校。

会社。

広告。

SNS。

世界は、
他人の欲望で溢れている。

だから、
本当に自分が欲しいものが分からなくなる。

 

 

隆司はノートを書き始めた。

「俺は自由だ」

「俺は豊かだ」

「俺は運がいい」

「俺は若い」

最初は、
自分でも馬鹿みたいだと思った。

しかし、
不思議なことが起き始める。

偶然が増えた。

必要な人間と出会う。

仕事が繋がる。

金が流れ込む。

そして何より、
心が軽くなった。

不安が減ると、
現実まで変わる。

まるで世界そのものが、
自分の振動に反応しているみたいだった。

ある夜。

娘たちが寝たあと、
美和がキッチンで皿を洗っていた。

隆司は後ろから彼女を見ていた。

部屋着姿。

無造作に束ねた髪。

細い首筋。

結婚して何年も経っているのに、
時々、
彼女がまったく別の生き物に見える。

女という存在。

理解不能な宇宙。

美和は振り返らずに言った。

「ねぇ」

「ん?」

「最近、また顔変わったよね」

「顔?」

「なんか若返ってない?」

隆司は少し笑った。

「そうか?」

「うん。なんか気味悪い」

美和は笑いながら言った。

だが、
その声には、
少しだけ本気の戸惑いが混ざっていた。

隆司は知っていた。

思考は、
本当に肉体を変える。

人間は、
自分が信じている姿になっていく。

そして彼は、
まだ誰も知らない領域へ、
少しずつ足を踏み入れていた。

第八話 結婚

神谷隆司と美和が結婚したのは、二十四歳の時だった。

派手な式ではなかった。

小さな結婚式場。

親族中心。

安い料理。

少し古い白いドレス。

だが、
美和は綺麗だった。

隆司は式の最中、
何度も彼女を見ていた。

中学二年の昼休み。

体育館前で笑っていた少女が、
今、
自分の隣でウェディングドレスを着ている。

それが信じられなかった。

結婚後、
二人は小さなアパートで暮らし始めた。

六畳。

狭いキッチン。

薄い壁。

冬は寒く、
夏は暑い。

金は無かった。

だが、
不思議と幸福だった。

朝、
美和の寝顔を見る。

一緒にスーパーへ行く。

夜、
二人でカップラーメンを食べる。

そんな些細なことが、
世界の中心みたいに感じられた。

若い頃の隆司は、
本気で思っていた。

この幸福は永遠に続く、と。

だが、
現実は違う。

いや、
「現実」という言葉自体が、
すでに曖昧なのかもしれない。

隆司は時々思う。

 

 

人生には、
複数の流れがある。

ある世界線では、
自分たちは結婚していない。

別の世界線では、
もっと貧乏だった。

あるいは、
もっと幸福だったかもしれない。

だが、
少なくともこの世界では、
二人は愛し合っていた。

それは本当だった。

結婚して最初の冬。

夜中に目を覚ますと、
隣で眠る美和が小さく丸まっていた。

寒かったのだろう。

隆司は布団を引き寄せ、
彼女を抱き寄せた。

その瞬間、
美和が寝ぼけながら、
小さく笑った。

その柔らかさ。

体温。

匂い。

女の身体は、
男にとって、
時々あまりにも危険だった。

安心と欲望が、
同時に存在している。

だから男は、
女に溺れる。

そして同時に、
永遠に理解できない。

美和は目を閉じたまま言った。

「ねぇ」

「ん?」

「神谷ってさ」

「なんだよ」

「私のこと、好きすぎるよね」

隆司は苦笑した。

「悪いか」

「悪くない」

そう言って、
美和は再び眠った。

その横顔を見ながら、
隆司は思った。

自分は、
この女を一生失いたくない。

もし失えば、
世界の色が変わってしまう。

その予感だけは、
なぜか昔からあった。

 

 

翌朝、
美和は寝癖だらけの頭でキッチンに立っていた。

味噌汁の匂い。

焼き魚。

朝の光。

隆司はその光景を見ながら、
妙に泣きそうになった。

世界は、
こんなにも美しいのかと思った。

そして同時に、
怖かった。

幸福とは、
失う可能性を持った瞬間から、
恐怖へ変わる。

愛すれば愛するほど、
失う未来が現実味を持つ。

だから人間は、
完全には安心できない。

隆司は味噌汁を飲みながら、
ふと美和を見た。

彼女は窓の外を見ていた。

朝の光の中で、
その横顔は、
まだ中学時代の少女に見えた。

そして隆司は、
この時すでに、
どこかで気づいていた。

この幸福は、
永遠ではない。

人間は、
同じ人を愛し続けながら、
少しずつ別の存在になっていく。

それが、
結婚というものなのかもしれなかった。

第九話 娘が生まれた日

長女の香織が生まれた日、神谷隆司は病院の廊下で震えていた。

冬だった。

外は冷たい雨が降っている。

古い総合病院の廊下には、
消毒液の匂いが漂っていた。

隆司は何度も腕時計を見た。

時間の流れが妙に遅い。

陣痛室からは、
時々、
美和の声が聞こえた。

苦しそうな声。

叫び声。

息を詰める音。

そのたびに、
隆司の胸は締め付けられた。

女は、
本当に凄い生き物だと思った。

男には分からない。

絶対に。

セックスの時、
あれほど快楽に身を震わせる身体が、
今は命を生み出すために悲鳴を上げている。

生命というものは、
なぜこんなにも残酷で、
こんなにも神秘的なのか。

隆司は壁にもたれ、
深く息を吐いた。

自分には何もできない。

それが苦しかった。

金も意味がない。

知識も意味がない。

男は、
結局、
女が命を生み出す瞬間の前では、
ただ待つしかない。

 

 

数時間後。

突然、
赤ん坊の泣き声が聞こえた。

その瞬間、
世界が静止した。

看護師が出てきて、
「おめでとうございます。女の子ですよ」
と笑った。

隆司は、
一瞬、
何も言えなかった。

涙が出そうだった。

いや、
実際、
少し泣いていた。

病室へ入ると、
美和が疲れ切った顔で横になっていた。

汗で髪が張り付いている。

それでも、
彼女は笑っていた。

「見て」

小さな声だった。

看護師に抱かれた赤ん坊。

小さい。

本当に小さい。

だが、
その存在感は、
信じられないほど巨大だった。

香織は目を閉じ、
小さく手を動かしていた。

その瞬間、
隆司は奇妙な感覚に襲われた。

この子は、
偶然生まれたのではない。

無数の可能性の中から、
選ばれてここへ来た。

そんな感覚。

もし、
自分が中学二年で美和を見ていなければ。

もし、
別の高校へ行っていたら。

もし、
別の女を好きになっていたら。

この子は存在しなかった。

世界には、
無数の「存在しなかった命」が漂っている。

その中で、
今、
この子だけが現実としてここにいる。

隆司は、
恐ろしくなった。

同時に、
涙が出るほど愛しかった。

 

 

香織を抱いた瞬間、
彼は思った。

絶対に守る。

この子だけは。

何があっても。

だが人生は、
人間が誓った通りには進まない。

それを、
隆司はまだ知らない。

数日後。

小さなアパートへ戻った夜、
香織は延々と泣き続けた。

美和は疲れ果て、
髪を振り乱しながら赤ん坊をあやしている。

隆司はオロオロするだけだった。

「ごめん、ちょっと抱いて」

美和が限界みたいな声で言った。

隆司は慌てて香織を受け取った。

小さい。

壊れそうだ。

しかし、
抱き上げた瞬間、
香織は急に静かになった。

大きな目で、
じっと隆司を見ている。

その視線に、
彼は妙な感覚を覚えた。

まるで、
試されているみたいだった。

お前は、
本当に父親になる覚悟があるのか。

そう問われている気がした。

窓の外では、
冬の風が吹いていた。

狭い部屋。

貧乏。

不安。

未来は何も分からない。

だがその夜、
隆司は人生で初めて、
「自分以外の存在のために生きたい」
と思った。

世界は、
あの日から、
また少し形を変え始めていた。

第十話 BGM

神谷隆司は、人間には常に「BGM」が流れていると思っていた。

音楽ではない。

思考だ。

しかも、
本人すら気づいていない種類の思考。

無意識の独り言。

朝起きた瞬間から、
人間の頭の中では、
延々と何かが再生され続けている。

「疲れた」

「面倒だ」

「自分はダメだ」

「失敗するかもしれない」

「嫌われたくない」

「才能がない」

「もっと頑張らなきゃ価値がない」

そして恐ろしいことに、
人間はそのBGM通りの人生を生き始める。

隆司は若い頃、
そのことに気づいてしまった。

きっかけは、
ある失敗だった。

三十代前半。

事業はまだ不安定で、
金も少なく、
焦りばかりが大きかった頃。

ある大型案件が、
突然白紙になった。

取引先の都合だった。

だが、
隆司はその時、
妙な感覚を覚えた。

自分は、
この失敗をどこかで予想していた。

いや、
もっと正確に言えば、
「期待していた」。

失敗する未来を。

心の奥で。

その時、
彼は気づいた。

人間は、
表面では成功を望みながら、
無意識では失敗を再生し続けている。

それが現実になる。

 

 

だからまず、
変えるべきは現実ではない。

頭の中のBGMだ。

隆司は徹底的に自分を観察し始めた。

朝起きた時、
何を考えるのか。

金を使う時、
何を感じるのか。

女を見た時、
どんな感情が動くのか。

すると、
驚くほど多くの否定が潜んでいた。

「金は無くなる」

「いつか失敗する」

「愛され続けるはずがない」

「幸福は壊れる」

その思考が、
現実を作っている。

だから隆司は、
BGMを書き換え始めた。

「俺は豊かだ」

「世界は優しい」

「必要なものは来る」

「愛されている」

「若い」

「健康だ」

毎日、
何度も。

最初は滑稽だった。

鏡を見ながら、
「俺は若い」
などと言う中年男は、
普通なら気味が悪い。

だが、
続けるうちに、
身体が変わり始めた。

表情。

肌。

姿勢。

空気。

そして、
現実まで変わる。

成功が続き始めた。

偶然とは思えないほど。

 

だが、
どれだけBGMを書き換えても、
一つだけ消えない音があった。

美和だった。

もっと正確に言えば、

「失う恐怖」

だった。

幸福になるほど、
その恐怖は大きくなる。

香織が生まれ、
真奈が生まれ、
家族が完成していくほど、
隆司の中では別の声が強くなっていった。

「いつか壊れる」

「いつか失う」

「永遠ではない」

それは、
どれだけ成功しても消えなかった。

ある夜。

娘たちが眠ったあと、
美和がソファでテレビを見ていた。

バラエティ番組。

笑い声。

安っぽいCM。

隆司はその横顔を見ながら、
急に不安になった。

もし、
この時間が終わったら。

もし、
この女を失ったら。

もし、
娘たちが離れていったら。

その瞬間、
胸の奥に、
黒い感情が生まれる。

不足。

恐怖。

執着。

隆司は知っていた。

この感情もまた、
現実を引き寄せる。

だから、
必死で打ち消した。

「大丈夫だ」

「世界は優しい」

「失わない」

だが、
人間の深層は、
そう簡単には騙せない。

美和が振り返った。

「どうしたの?」

「いや……」

「変な顔してる」

隆司は少し笑った。

「考え事」

「また世界の秘密?」

「そんなとこだ」

美和は呆れたように笑った。

その笑顔を見ながら、
隆司は思った。

この女は、
自分の人生そのものだ。

だからこそ、
怖い。

愛とは、
幸福ではないのかもしれない。

愛とは、
失う可能性を抱えたまま、
それでも近づいてしまう衝動なのかもしれなかった。

第十一話 世界線

最初に違和感を覚えたのは、四十二歳の時だった。

その頃の神谷隆司は、
仕事でもかなり成功していた。

会社は拡大し、
金も増え、
家族もまだ壊れていない。

世間的には、
順調な人生だった。

だが、
ある朝、
鏡を見た瞬間、
妙な感覚に襲われた。

「これは、本当に俺の人生なのか?」

理由は分からない。

記憶もある。

家族もいる。

仕事も理解している。

なのに、
どこか「ズレ」があった。

まるで、
昨日までいた世界と、
ほんの少しだけ違う場所へ移動したような感覚。

最初は疲れているだけだと思った。

だが、
それ以降、
奇妙なことが増え始める。

美和の口癖が、
記憶と違う。

娘たちの表情に、
妙な既視感がある。

行ったことがない場所を、
知っている気がする。

逆に、
知っているはずの景色に、
一瞬だけ違和感を覚える。

 

 

そして時々、
夢を見る。

別の人生の夢。

ある夢では、
隆司は美和と結婚していなかった。

東京で一人暮らしをし、
別の女と付き合っていた。

高層マンション。

外車。

成功。

しかし、
その世界には香織も真奈も存在しない。

夢の中の隆司は、
巨大な孤独を抱えていた。

また別の夢では、
彼は教師になっていた。

小さな地方都市。

平凡な生活。

金も無い。

だが、
夕食時、
家族が笑っている。

その光景を見て、
夢の中の隆司は、
妙に満たされていた。

さらに別の夢では、
美和が死んでいた。

若い頃に。

その世界の隆司は、
一生、
何かを失ったまま生きていた。

目が覚めるたび、
胸が苦しくなる。

なぜ、
こんな夢を見るのか。

だが、
ある時から、
隆司は考え始めた。

もしかすると、
これらは単なる夢ではないのではないか。

世界は一つではない。

無数の可能性が、
同時に存在している。

人間は、
その中の一つを「現実」と呼んでいるだけだ。

そう考えると、
妙に辻褄が合った。

人間の直感。

デジャヴ。

説明できない懐かしさ。

初めて来た場所なのに、
涙が出そうになる感覚。

それらは、
別世界線の記憶が漏れているのではないか。

 

 

隆司は夜中、
一人で書斎に座っていた。

窓の外には東京の夜景。

静かな部屋。

彼はノートに書いた。

『世界は一本ではない』

ペン先が震える。

もしそうなら。

今この瞬間も、
別の自分が存在している。

成功していない自分。

若返っていない自分。

美和を失わなかった自分。

あるいは、
一度も出会わなかった自分。

その時、
隆司の脳裏に、
中学時代の美和が浮かんだ。

体育館前。

春の光。

笑い声。

あの瞬間だけは、
どの世界線でも共通している気がした。

たとえ結婚しなくても。

たとえ別の人生を歩んでも。

自分はきっと、
あの日、
彼女を見た瞬間に世界を書き換えられる。

それほど強烈だった。

隆司は時々思う。

人生とは、
出来事の積み重ねではない。

たった一つの感情を中心に、
無数の現実が枝分かれしていく現象なのではないか。

その夜。

リビングで眠る美和を見ながら、
彼は奇妙な確信を抱いた。

自分は、
この女を愛している。

しかし同時に、
永遠に理解できない。

そして、
理解できないからこそ、
無数の世界線で、
何度でも彼女を追い続けてしまう。

そんな気がした。

第十二話 成功

神谷隆司は、成功した。

誰が見ても、
圧倒的と言っていいほどに。

四十代後半には、
会社は急成長していた。

投資も当たった。

不動産。

株。

海外事業。

なぜか、
全てが繋がっていく。

必要なタイミングで、
必要な人間が現れる。

偶然とは思えないほど。

周囲は言った。

「神谷さんは運がいい」

隆司は否定しなかった。

実際、
運は良かった。

だが、
彼には分かっていた。

運とは、
偶然ではない。

振動だ。

人間が発している思考の波が、
現実を引き寄せる。

不足を出せば、
不足が来る。

恐怖を出せば、
恐怖が来る。

逆に、
豊かさを出せば、
豊かさが集まる。

隆司はそれを、
実験みたいに観察していた。

ある時期から、
彼は徹底して「不足」を見ないようにした。

金が減っても、
「大丈夫」
と言う。

問題が起きても、
「これは次に繋がる」
と思う。

すると本当に、
状況が好転する。

最初は半信半疑だった。

しかし、
何度も続けば、
確信に変わる。

世界は、
思った以上に柔らかい。

そして、
人間の思考は、
想像以上に現実へ干渉している。

 

 

五十代に入る頃には、
隆司は巨額の資産を持っていた。

高級車。

別荘。

海外口座。

プライベートジェット。

昔の自分なら、
映画の中の話だと思っただろう。

だが、
不思議なことに、
手に入れるほど、
感動は薄れていった。

最初に高級車を買った時は震えた。

しかし十台目になる頃には、
ただの移動手段になる。

高級ホテルも、
高級時計も、
結局は慣れる。

人間の欲望は、
すぐに麻痺する。

ただ、
一つだけ慣れなかったものがある。

宝くじだった。

十二億円。

本当に当たった時、
隆司は数分間、
無言だった。

数字を何度も確認した。

笑いも出なかった。

ただ、
「やはり」
と思った。

ついに、
ここまで来たか。

そんな感覚。

若い頃から、
彼はノートに書いていた。

『俺は異常な幸運を持っている』

それが現実になった。

だが、
その頃から、
隆司は少しずつ恐ろしくなっていく。

もし本当に、
思考が現実を作っているなら。

逆に、
悪い想像も現実化するのではないか。

実際、
嫌な予感が当たることが増えていた。

会いたくない相手から連絡が来る。

不安に思ったことが起きる。

偶然とは思えない。

思考は、
良くも悪くも、
世界へ染み出している。

 

 

ある夜。

隆司は一人で、
高層マンションの窓際に立っていた。

東京の光が下に広がっている。

昔、
貧乏だった頃、
彼はこの景色に憧れていた。

成功すれば、
幸福になれると思っていた。

だが今、
胸の奥にあるのは、
妙な空虚だった。

その時、
後ろから美和の声がした。

「また難しい顔してる」

振り返ると、
部屋着姿の美和が立っていた。

四十代後半。

若い頃より少し痩せ、
目元には疲れもある。

それでも、
隆司には時々、
中学時代の少女に見える。

美和は窓の外を見た。

「すごいねぇ」

「何が?」

「ここまで来たじゃん」

隆司は少し笑った。

「そうだな」

「昔、あんなボロアパートだったのに」

美和は笑った。

その笑顔を見た瞬間、
隆司は妙な不安に襲われた。

もし、
この時間が消えたら。

もし、
この女を失ったら。

その瞬間。

胸の奥で、
何か黒いものが揺れた。

そして隆司は、
気づいてしまった。

成功すればするほど、
失う恐怖は大きくなる。

愛するものが増えるほど、
人間は弱くなる。

それでも人は、
幸福を求めてしまう。

まるで、
壊れる未来を知りながら、
夢を見続けるみたいに。

第十三話 若返り

五十四歳の時だった。

最初に気づいたのは美和だった。

「ねぇ」

朝食の席で、
彼女は味噌汁を飲みながら言った。

「最近、白髪減ってない?」

隆司は笑った。

「そんなわけないだろ」

「いや、本当に」

美和は真顔だった。

「なんか若くなってる」

その時は気にも留めなかった。

しかし、
半年後。

一年後。

二年後。

確かに何かが起きていた。

鏡の中の顔が変わる。

肌の質感。

目の輝き。

体力。

睡眠。

疲労回復。

明らかに老化の速度がおかしい。

会社の若い社員が言った。

「神谷社長って、本当に五十代ですか?」

その時、
隆司は冗談だと思った。

しかし、
同じことを何人にも言われた。

 

 

医師も首をかしげた。

血液検査。

ホルモン検査。

遺伝子検査。

異常なし。

むしろ健康すぎる。

「神谷さん、何か特別なことやってます?」

医師が聞いた。

隆司は少し考えた。

食事。

運動。

睡眠。

もちろん気を使っている。

しかし、
本質はそこではない。

彼は知っていた。

自分が何十年も続けてきたこと。

思考。

認識。

自己イメージ。

それだ。

人間は、
自分が信じている姿になる。

若い頃から、
隆司はずっと考えていた。

老化とは何か。

本当に避けられないものなのか。

あるいは。

人類全体が共有している思い込みなのか。

老人は老いる。

年齢を重ねれば衰える。

そう信じているから、
身体が従うのではないか。

証明はできない。

だが、
自分の身体は確実に変わっている。

それだけは事実だった。

そして六十歳を超えた頃。

状況は異様になっていた。

 

 

娘たちが戸惑い始めた。

ある日、
香織がスマートフォンを見ながら言った。

「お父さん、これ何年前?」

「ん?」

「この写真」

隆司が覗き込む。

家族旅行の写真だった。

数年前のもの。

「五年くらい前かな」

「全然変わってないじゃん」

香織が眉をひそめた。

横で真奈も頷く。

「むしろ今の方が若くない?」

冗談半分。

本気半分。

娘たちは笑った。

だが、
その笑いの奥には違和感があった。

父親は老いるものだ。

それが自然だ。

なのに。

神谷隆司だけが、
その流れから外れ始めている。

ある夜。

隆司は一人で鏡を見ていた。

洗面所。

静かな照明。

鏡の中には、
五十代前半にしか見えない男がいる。

だが。

その目だけは違う。

目の奥には、
六十五年分の時間が沈んでいる。

その時、
ふと、
奇妙な感覚が走った。

鏡の中の自分が、
一瞬だけ老人に見えた。

深い皺。

白髪。

疲れた顔。

見知らぬ老人。

次の瞬間には消えた。

幻覚だったのか。

分からない。

だが隆司は思った。

若返っているのは、
本当に肉体なのだろうか。

それとも。

別の世界線の自分へ、
少しずつ移動しているだけなのか。

もしそうなら。

どこまで行くのだろう。

そして。

何を失うのだろう。

その夜、
鏡の中の自分は、
なぜか少し寂しそうに見えた。

第十四話 離婚

離婚は突然ではなかった。

むしろ、
何年も前から始まっていた。

神谷隆司は、
ずっと後になってからそのことに気づいた。

人間関係は、
ある日壊れるのではない。

少しずつ、
少しずつ、
別の方向へ流れていく。

気づいた時には、
もう元には戻れない。

香織が大学生になり。

真奈が高校生になり。

家庭は落ち着いていた。

金もあった。

家も広い。

旅行にも行ける。

世間から見れば、
成功した家族だった。

しかし。

隆司と美和の間には、
静かな距離が生まれていた。

最初は小さな違和感だった。

会話が減る。

目を合わせなくなる。

一緒にいても、
別々のことを考えている。

昔は違った。

何を話しても楽しかった。

ただ同じ部屋にいるだけで幸せだった。

なのに。

いつからだろう。

美和は、
隆司の話を聞かなくなった。

いや。

聞いてはいる。

しかし、
本当に理解しようとはしていない。

隆司も同じだった。

彼女の言葉を聞きながら、
頭の中では別のことを考えている。

 

 

仕事。

投資。

未来。

世界の構造。

思考と現実。

いつの間にか、
二人は違う世界を生きていた。

ある夜。

リビングでテレビが流れていた。

美和はソファに座っている。

隆司は窓の外を見ていた。

「ねぇ」

美和が言った。

「ん?」

「最近さ」

「何?」

「私たち、全然話してないよね」

その言葉に、
隆司は少し驚いた。

話しているつもりだった。

必要なことは。

だが、
美和が言いたいのはそういうことではない。

「そうか?」

隆司は答えた。

その瞬間。

美和の顔が少し曇った。

今なら分かる。

あの時、
彼女は助けを求めていた。

理解してほしかった。

見てほしかった。

愛してほしかった。

だが隆司は気づかなかった。

彼は世界の秘密を考えることに夢中だった。

思考。

振動。

引き寄せ。

成功。

若返り。

それらを追いかけるうちに、
最も身近な人間の孤独を見失った。

数年後。

二人は離婚した。

激しい喧嘩はなかった。

裏切りもない。

不倫もない。

暴力もない。

ただ。

距離が遠くなりすぎた。

それだけだった。

離婚届に判を押した日。

美和は泣かなかった。

隆司も泣かなかった。

だが、
二人とも疲れていた。

長い旅を終えたみたいに。

 

 

役所を出たあと、
美和が言った。

「不思議だね」

「何が?」

「中学の時は、一生一緒だと思ってた」

隆司は返事ができなかった。

彼も同じだった。

あの昼休み。

あの笑い声。

あの春。

全部、
永遠だと思っていた。

美和は少し笑った。

「でもさ」

「ん?」

「嫌いになったわけじゃないんだよ」

その言葉が、
妙に苦しかった。

嫌いになったなら、
もっと楽だった。

愛が消えたわけではない。

ただ。

届かなくなった。

それだけだった。

美和は歩き出した。

夕方の光の中。

その後ろ姿を見ながら、
隆司は思った。

世界には、
どうしても引き寄せられないものがある。

どれだけ願っても。

どれだけ思考を変えても。

どれだけ成功しても。

人の心だけは、
完全には支配できない。

その事実を、
彼は初めて本当に理解した。

そして。

六十五歳になった今でも、
それが人生最大の敗北だった気がしている。

第十五話 女の本能

離婚して三年が過ぎた頃。

神谷隆司は、ある種の諦めに近い境地へ入っていた。

以前なら、
美和のことを考えるたびに苦しくなった。

なぜ分かり合えなかったのか。

何が足りなかったのか。

どこで間違えたのか。

その問いを何百回も繰り返した。

しかし、
ある日ふと思った。

もしかすると。

最初から完全に理解することなど不可能だったのではないか。

男と女は、
同じ人間でありながら、
まったく違う世界を生きている。

その考えに至った時、
不思議と少しだけ楽になった。

高層マンションの書斎。

深夜。

隆司は一冊の本を閉じた。

進化心理学の本だった。

そこには、
男と女の行動の違いについて書かれていた。

隆司は本を読んでいて、
時々笑ってしまう。

学者たちが難しい言葉で説明していることを、
自分は十代の頃から感覚的に知っていた気がするからだ。

男は女に惹かれる。

女は男を選ぶ。

その背後には、
何百万年もの生命の歴史がある。

もちろん、
恋愛はそれだけではない。

愛情もある。

優しさもある。

献身もある。

だが、
もっと深い場所では、
生命そのものが動いている。

 

 

隆司は昔から、
美和を見ていると、
そう感じていた。

特に妊娠した頃からだった。

彼女の身体は変わった。

表情も変わった。

優しさも増した。

しかし同時に、
どこか別の生き物になったようにも見えた。

母親。

それは男にはなれない存在だった。

ある夜。

香織を寝かしつけた後、
美和が静かに言ったことがある。

「ねぇ」

「ん?」

「もし私が死んだらどうする?」

突然だった。

隆司は笑った。

「死なないだろ」

「もし」

美和は真顔だった。

隆司は少し考えた。

「困るな」

「それだけ?」

「ものすごく困る」

美和は苦笑した。

「男ってそういう答え方するよね」

その時は意味が分からなかった。

今なら少し分かる。

 

 

女は感情を共有したい。

男は問題を解決したい。

男は現実を語る。

女は感情を語る。

だから、
同じ言葉を聞いても、
見ている世界が違う。

美和はきっと、

「お前がいないと生きていけない」

そういう言葉を期待していたのかもしれない。

だが隆司は言わなかった。

言えなかった。

愛していなかったからではない。

むしろ逆だった。

愛していたから、
当たり前すぎて言葉にできなかった。

今思えば、
それが男の弱さだった。

六十五歳になった隆司は、
ようやく理解し始めていた。

男は、
女を理解できない。

女もまた、
男を理解できない。

しかし。

理解できないからこそ、
惹かれ続ける。

もし完全に理解できるなら、
恋愛は存在しないのかもしれない。

その夜。

窓の外に広がる東京の光を見ながら、
隆司は思った。

美和は、
自分の人生で最も理解できなかった存在だった。

そして同時に、
最も愛した存在だった。

第十六話 存在しなかった娘

その夢は、
あまりにもリアルだった。

夢だと気づいたのは、
目覚めた後だった。

最初は現実だと思った。

それほど鮮明だった。

夢の中で、
神谷隆司は七十歳だった。

今より少し老けている。

資産は今よりさらに多い。

巨大企業の会長。

世界中に不動産。

専用機。

誰もが羨む成功者。

だが。

家の中が異様に静かだった。

広いリビング。

高級家具。

美術品。

完璧な夜景。

しかし。

誰もいない。

笑い声がない。

生活の気配がない。

 

 

その時、
夢の中の隆司は気づいた。

香織がいない。

真奈もいない。

存在していない。

最初は意味が分からなかった。

写真を探す。

アルバムを開く。

スマートフォンを見る。

だが、
どこにも娘たちはいない。

代わりに。

別の人生が存在していた。

夢の中の隆司は、
若い頃、
美和と結婚していなかった。

成功を優先した。

仕事を選んだ。

自由を選んだ。

結果として、
莫大な富を手に入れた。

しかし。

香織はいない。

真奈もいない。

その事実が、
胸を切り裂く。

夢の中で隆司は泣いていた。

本気で。

世界中の金を積まれても、
交換したくないものがある。

それを初めて知った。

夢の中の隆司は、
巨大な寝室の床に座り込み、
声を上げて泣いた。

「香織」

「真奈」

呼んでも誰も来ない。

存在しないから。

その時。

夢の中で、
ふと別の景色が見えた。

小さなアパート。

狭いリビング。

安物のソファ。

若い美和。

小さな香織。

泣いている真奈。

現実の記憶だった。

その光景が、
異常なほど美しく見えた。

 

 

夢の中の隆司は、
その世界へ行きたかった。

金もいらない。

成功もいらない。

ただ。

娘たちがいる世界へ戻りたい。

それだけだった。

そして目が覚めた。

朝だった。

窓から光が入っている。

静かな部屋。

隆司はしばらく動けなかった。

胸が痛かった。

本当に失った気がしたからだ。

彼は震える手でスマートフォンを開いた。

家族写真のフォルダ。

そこには香織も真奈もいた。

小さい頃の写真。

運動会。

旅行。

誕生日。

どれも本物だった。

隆司は深く息を吐いた。

涙が出そうだった。

その時、
ある考えが頭をよぎった。

もし。

本当に世界線が存在するなら。

今見た夢は、
単なる夢ではないのではないか。

どこかの現実。

どこかの神谷隆司。

どこかの人生。

そう考えた瞬間、
隆司は理解した。

自分が本当に守りたかったものを。

金ではない。

若さでもない。

成功でもない。

娘たちだった。

そして。

その娘たちを連れてきてくれたのは、
中学二年の春、
体育館前で笑っていた、
一人の少女だった。

世界は無数に分岐している。

だが。

この人生だけは、
失いたくない。

隆司は初めて、
心の底からそう思った。

第十七話 香織

香織は父親が苦手だった。

嫌いではない。

むしろ尊敬している部分もある。

だが、
苦手だった。

子供の頃からそうだった。

父は優しかった。

怒鳴ることもない。

暴力もない。

家族を養った。

お金も稼いだ。

世間から見れば、
理想的な父親かもしれない。

しかし。

どこか遠かった。

いつも。

小学生の頃。

運動会で転んだ時。

父は来ていた。

応援もしていた。

だが、
駆け寄って抱きしめてくれるような人ではなかった。

「大丈夫か?」

そう聞く。

それだけ。

香織は当時から思っていた。

お父さんは、
私を愛している。

でも。

どう愛していいか分からないんだ。

それは成長するにつれ、
さらに強くなった。

中学。

高校。

大学。

父との距離は、
少しずつ広がった。

 

 

原因は分かっている。

父は現実より、
頭の中の世界を生きていた。

思考。

成功。

振動。

引き寄せ。

世界線。

そんな話ばかりしていた。

香織には理解できなかった。

「お父さん、また変なこと言ってる」

それが本音だった。

ある日。

三十代になった香織は、
実家で父と二人になった。

母はすでに離婚している。

真奈もいない。

広いリビング。

高級マンション。

夜景。

父は窓の外を見ていた。

若い。

異様に。

本当に六十五歳なのかと思う。

香織より若く見える瞬間すらある。

それが余計に気味悪かった。

「ねぇ」

香織が言った。

「ん?」

「本当に若返ってるよね」

父は笑った。

「そうか?」

「そうかじゃないよ」

香織は苦笑した。

「普通じゃないから」

父は何も言わなかった。

 

 

しばらく沈黙。

そして突然言った。

「香織」

「何?」

「幸せか?」

その問いに、
香織は少し戸惑った。

離婚したばかりだった。

仕事も忙しい。

人生が順調かと言われれば、
微妙だった。

「普通かな」

そう答えた。

父は頷いた。

「それならいい」

またそれだ。

香織は思う。

父はいつもそうだ。

本当に言いたいことを言わない。

本当は心配しているくせに。

本当は愛しているくせに。

全部、
遠回りする。

香織は窓に映る父を見た。

その瞬間。

なぜか小さな頃の記憶が蘇った。

夜中。

高熱を出した自分。

病院へ向かう車。

父がずっと手を握っていた。

一言も喋らずに。

ただ、
ずっと。

あの時の手の温かさだけは、
今でも覚えている。

香織はふと気づく。

もしかすると。

父は昔から変わっていない。

愛し方が下手なだけなのだ。

その時、
父が静かに言った。

「香織」

「何?」

「生まれてきてくれてありがとう」

香織は固まった。

そんな言葉を、
父の口から聞いたことがなかった。

胸の奥が少し熱くなる。

だが照れくさくて、
素直になれない。

「急に何?」

「いや」

父は笑った。

「そう思っただけだ」

香織は顔を背けた。

窓の外の夜景が滲んで見えた。

第十八話 真奈

真奈は父親を少し怖いと思っていた。

しかし同時に、
一番理解したい人でもあった。

姉の香織とは違う。

香織は現実主義だ。

証拠が無いものは信じない。

父の思想も、
どこか危険視している。

だが真奈は違った。

小さい頃から感覚的だった。

説明できないことを、
説明できないまま受け入れる。

そんな性格だった。

だから父の話も、
完全には否定できなかった。

思考は現実になる。

世界は振動している。

人間はエネルギーだ。

普通なら笑う。

だが。

父を見ていると、
笑いきれない。

実際に成功している。

異常なほど。

そして。

本当に若返っている。

 

 

ある日、
真奈は父と二人で食事をした。

高級レストラン。

窓際の席。

夜景が綺麗だった。

父は昔より穏やかに見えた。

だが、
どこか寂しそうだった。

「お父さん」

「ん?」

「寂しい?」

真奈は直球で聞いた。

父は少し笑った。

「なんで?」

「なんとなく」

しばらく沈黙。

そして父は言った。

「寂しいな」

意外だった。

もっと誤魔化すと思った。

「何が?」

「色々だ」

父は窓の外を見る。

「時間かな」

真奈は黙った。

父が続ける。

「若返ってもな」

「うん」

「時間だけは戻らない」

その言葉が、
妙に胸に残った。

世間は父を羨む。

金。

成功。

健康。

若さ。

全部持っている。

しかし。

父自身は、
何かを失った人みたいだった。

「お母さん?」

真奈が聞いた。

父は笑った。

少しだけ。

「そうかもな」

その顔を見て、
真奈は確信した。

父は今でも母を愛している。

離婚して十年以上。

それでも。

中学時代から続く恋が、
まだ終わっていない。

 

 

「お父さん」

「ん?」

「会えば?」

父は驚いた顔をした。

「誰に?」

「お母さんに」

しばらく沈黙。

そして小さく笑った。

「怖いんだよ」

真奈は目を丸くした。

父がそんなことを言うのは珍しい。

「何が?」

「現実かな」

父はワインではなく水を飲んだ。

「頭の中の美和は完璧なんだ」

真奈は黙って聞く。

「でも本物は違うかもしれない」

「うん」

「それが怖い」

真奈はその瞬間、
父が少し可愛く思えた。

一兆円持っていても。

若返っていても。

世界の秘密を語っていても。

結局、
一人の男なのだ。

恋をしたまま歳を取った。

ただそれだけ。

レストランを出たあと。

二人は夜の街を歩いた。

真奈は父の横顔を見ながら思う。

父はたぶん、
世界の仕組みを知りたいのではない。

本当に知りたいのは。

なぜ人は、
一人の人間をこれほど長く愛してしまうのか。

その答えなのかもしれない。

そしてその答えは、
父がどれほど成功しても、
まだ見つかっていないのだった。

第十九話 中学の夏

六十五歳になった今でも。

神谷隆司の人生で、
最も眩しい季節は中学二年の夏だった。

不思議なものだと思う。

一兆円の資産を築いた。

世界中を旅した。

宝くじで十二億円を当てた。

若返りまで経験した。

それでも。

心の奥で光り続けているのは、
たった一つの夏だった。

その日。

蝉がうるさいほど鳴いていた。

校庭は白く光り、
アスファルトの向こうで空気が揺れている。

終業式の前日だった。

授業など誰も聞いていない。

先生の声は遠く、
教室には夏休みの匂いが漂っていた。

隆司は窓際の席に座り、
ぼんやり外を見ていた。

すると。

前の席の美和が振り返った。

「神谷」

「ん?」

「夏休み、暇?」

それだけだった。

だが。

心臓が跳ねた。

今なら笑える。

たったそれだけの言葉で、
世界が変わったのだから。

 

 

「暇だけど」

声が少し裏返った。

美和は笑った。

「みんなで海行くんだけど」

その笑顔。

その声。

その髪。

その生命力。

隆司は今でも思う。

あの頃の美和には、
重力があった。

周囲の人間を引き寄せる、
圧倒的な何か。

本人は気づいていない。

そこがまた恐ろしい。

放課後。

友人たちと海へ行った。

電車。

砂浜。

焼けた空気。

波の匂い。

今なら何でもない風景だ。

しかし。

十五歳の隆司にとっては、
世界そのものだった。

美和は笑っていた。

海に向かって走る。

友人に水をかける。

大声で笑う。

その姿を見ているだけで、
幸福だった。

当時の隆司は、
まだ言葉にできなかった。

恋。

性。

憧れ。

生命。

全部が混ざっていた。

ただ。

彼女がいる世界に、
自分もいたい。

そう思った。

夕方。

海がオレンジ色に染まる。

友人たちは騒いでいた。

しかし隆司は少し離れた場所で、
波を見ていた。

 

 

その時。

隣に美和が来た。

「何してるの?」

「別に」

「また難しいこと考えてる?」

隆司は笑った。

「考えてない」

「嘘」

美和も笑った。

しばらく沈黙。

波の音だけが聞こえる。

その時、
美和が言った。

「夏って終わるの早いよね」

たったそれだけ。

しかし。

六十五歳の隆司は今でも覚えている。

人生も同じだった。

最も輝いている時間ほど、
終わるのが早い。

あの日の海。

あの日の夕焼け。

あの日の少女。

全部、
一瞬で過ぎ去った。

だが。

消えたわけではない。

今でも。

どこかで続いている。

隆司はそう信じている。

時間は流れていない。

あの夏は、
今も存在している。

ただ自分が、
そこから遠く離れただけなのだ。

第二十話 一兆円の孤独

神谷隆司は成功した。

その事実に疑いはない。

六十五歳。

資産一兆円超。

世界中のどこでも暮らせる。

働かなくても、
何代先まで遊んで暮らせる金がある。

若返った肉体。

健康。

自由。

若い頃に願ったものは、
ほとんど手に入った。

しかし。

その夜。

彼は一人だった。

東京湾を見下ろす高層マンション。

巨大なリビング。

静かな空間。

高級家具。

美術品。

夜景。

完璧だった。

完璧すぎた。

そして。

静かすぎた。

隆司は窓際に立っていた。

眼下には無数の光。

数百万の人間。

それぞれの人生。

それぞれの孤独。

それぞれの欲望。

その光景を見ながら、
ふと思った。

 

 

もし。

十五歳の自分が、
今の自分を見たらどう思うだろう。

尊敬するだろうか。

羨むだろうか。

それとも。

哀れむだろうか。

スマートフォンが震えた。

真奈からだった。

『ちゃんとご飯食べてる?』

短いメッセージ。

隆司は笑った。

娘は親を心配する年齢になった。

返信する。

『食べてる』

送信。

しばらくすると、
またメッセージが来る。

『今度ご飯行こう』

それだけ。

だが。

胸の奥が少し温かくなった。

一兆円では買えないものがある。

本当に。

たくさんある。

隆司は昔、
金さえあれば幸せになれると思っていた。

自由になれると思っていた。

苦しみから解放されると思っていた。

しかし違った。

金は選択肢を増やす。

不自由を減らす。

だが。

孤独は消えない。

愛も買えない。

時間も戻らない。

そして。

青春も帰ってこない。

その時。

ふと、
窓ガラスに映る自分の姿が目に入った。

若い。

異様なほど。

だが。

目だけが老いている。

その目を見ていると、
突然。

別の自分が重なった。

 

 

世界線の向こう側の自分。

貧乏な自分。

教師になった自分。

美和と離婚しなかった自分。

娘が存在しない自分。

無数の神谷隆司。

その全員が、
こちらを見ている気がした。

そして。

全員が同じ問いを投げかけてくる。

「お前は幸せか?」

隆司は答えられなかった。

幸せだ。

たぶん。

だが。

それだけではない。

後悔もある。

孤独もある。

喪失もある。

人生とは、
幸福か不幸かで測れるものではないのかもしれない。

その時。

スマートフォンが再び震えた。

画面には。

美和。

その名前が表示されていた。

隆司の心臓が、
少しだけ速くなる。

離婚して十年以上。

それでも。

その名前だけは、
今も特別だった。

メッセージを開く。

『今度、会わない?』

短い文章。

たったそれだけ。

だが。

一兆円を手に入れた夜よりも。

宝くじが当たった瞬間よりも。

若返りに気づいた朝よりも。

その文字の方が、
ずっと大きな衝撃だった。

窓の外には、
東京の夜景が広がっている。

しかし隆司の意識は、
もうそこにはなかった。

中学二年の春。

体育館前。

笑い声。

セーラー服。

あの日の少女が、
再び動き始めていた。

第二十一話 現実が揺らぐ

美和から届いた一通のメッセージは、神谷隆司の日常を静かに揺らし始めた。

『今度、会わない?』

たった六文字。

それだけで、世界の輪郭が少し変わった。

返事はまだしていない。

返事をすれば現実になる。

返事をしなければ、可能性のままでいられる。

隆司は書斎の椅子に座り、窓の外を見ていた。

夜景は昨日と同じはずだった。

だが、違って見える。

光の一つ一つが、生き物のように脈打っている。

ビルも道路も、人も車も、固定された物体ではなく、巨大な流れの一部のようだった。

「やはり世界は固くない……」

独り言が漏れる。

その瞬間だった。

机の上の古い大学ノートが、ひとりでに開いた。

風はない。

窓も閉まっている。

開いたページには、高校時代の自分の字があった。

『世界は変えられる。だが、人は変えられない。』

隆司は息をのんだ。

「こんなことを書いたか……?」

記憶にない。

しかし確かに自分の字だった。

 

 

その文字を見ているうちに、視界がゆっくり揺れ始める。

書斎の壁が薄くなる。

夜景が遠ざかる。

代わりに見えてきたのは、夕暮れの河川敷だった。

高校時代の自分がいる。

制服姿の美和が笑っている。

二人は並んで歩いていた。

しかし。

その光景に、今の隆司は入り込めない。

ガラス越しに見ているようだった。

「そこにいるのに……」

声は届かない。

手も届かない。

世界線というものが本当に存在するなら、時間とは何なのだろう。

過去へ戻ることではない。

過去は今も存在している。

ただ、自分が接続できなくなっているだけなのではないか。

 

 

その時、スマートフォンが震えた。

真奈だった。

『今日、お父さんのこと考えてた』

それだけだった。

隆司は少し笑う。

人は時々、説明できないタイミングで誰かを思い出す。

偶然と言えば偶然。

だが彼には、思考が遠く離れた相手にも届くように思えた。

人間は一人ではない。

意識はどこかで繋がっている。

それは証明できない。

しかし、自分の人生を振り返ると、その仮説の方が自然だった。

隆司は返信を打つ。

『俺も今、お前のことを考えていた』

送信ボタンを押した瞬間、不思議な安心感が胸に広がった。

世界は揺らいでいる。

だが、愛情だけは揺らぎながらも、どこかで繋がっている。

そう思えた。

その夜、眠りにつく直前。

隆司は夢とも現実ともつかない場所で、美和の声を聞いた。

「神谷」

「ん?」

「遅かったね」

その言葉だけを残して、景色は白い光に溶けていった。

第二十二話 老い

人は老いる。

昔の隆司は、それを絶対の真実だと思っていた。

今は違う。

肉体は老いを遅らせられる。

思考も変えられる。

細胞も変わる。

しかし。

時間だけは別だった。

時間は肉体ではなく、記憶に刻まれる。

そのことを痛感したのは、高校時代の親友・西田の訃報を聞いた日だった。

 

 

香織から電話があった。

「お父さん、西田さんって知ってる?」

隆司は一瞬黙った。

「知ってる」

「亡くなったって」

短い沈黙。

電話の向こうで香織も言葉を探している。

「そうか……」

それしか言えなかった。

電話を切ったあと、隆司はソファに腰を下ろした。

西田。

中学時代、焼きそばパンを奪い合った友人。

高校で一緒に笑った友人。

結婚式にも来てくれた友人。

もう会えない。

その事実だけが、静かに胸へ落ちていく。

若返った身体には、何の意味もなかった。

友人は戻らない。

時間も戻らない。

夕方。

隆司は一人で散歩に出た。

川沿いの遊歩道。

風は穏やかだった。

高校時代、美和と歩いた川に少し似ている。

ベンチに腰を下ろす。

向かいでは若い夫婦が、小さな男の子を遊ばせていた。

笑い声。

走る足音。

転んで泣く子供。

母親が抱き上げる。

父親が笑う。

その光景を見ながら、隆司は思う。

昔、自分もあそこにいた。

美和がいて。

香織がいて。

真奈がいて。

その時間は確かに存在した。

人生は消えていくのではない。

積み重なっていく。

ただ、人間の意識は未来ばかり見てしまう。

だから過去を失ったように感じる。

 

 

夕焼けが川面を赤く染めていた。

その色を見た瞬間、十五歳の夏が重なる。

海。

波。

夕焼け。

美和の横顔。

すべてが同時に存在していた。

「老いとは……」

隆司は静かにつぶやいた。

「身体ではなく、別れの数なのかもしれない」

若返った自分は、鏡の中では若い。

だが心の中には、別れた人たちが増え続けている。

父。

母。

恩師。

西田。

そして。

夫婦としての美和。

肉体は若返っても、喪失だけは積み重なる。

それが人間の時間だった。

帰宅すると、玄関のポストに一通の封筒が入っていた。

差出人は美和。

手紙だった。

メールでもLINEでもなく。

懐かしい筆跡で書かれた封筒。

隆司はしばらくそれを見つめていた。

指先が少し震える。

封を切れば、新しい時間が始まる。

あるいは。

終わったはずの時間が、再び動き出すのかもしれなかった。

第二十三話 美和の本心

神谷美和は、離婚してから初めて手紙を書いた。

今どき手紙など珍しい。

娘たちですら、連絡はLINEで済ませる。

それでも。

どうしても文字で書きたかった。

画面では伝わらないものがある。

そう思った。

便箋を前にすると、何を書けばいいのか分からない。

「元気ですか。」

そう書いて消した。

「久しぶり。」

それも違う。

結局、一時間ほど白い紙を見つめたあと、ようやく最初の一文を書いた。

――神谷へ。

「神谷」。

離婚して十年以上経つのに、名字で呼ぶ癖だけは変わらない。

少し笑ってしまった。

 

 

窓の外では夕暮れの光が揺れていた。

美和も六十五歳になった。

髪には白いものが混じり、鏡を見るたびに歳を感じる。

それでも時々、中学二年の自分を思い出す。

体育館前。

友達と笑っていた昼休み。

あの日のことを、隆司も覚えているのだろうか。

いや。

あの人なら覚えている。

昔から、どうでもいいような出来事を大切に抱え続ける人だった。

美和は知っていた。

隆司は変わった人だった。

高校生の頃から、宇宙の話をする。

時間とは何か。

人間とは何か。

世界は本当に存在しているのか。

そんなことばかり考えていた。

最初は面白かった。

自分の知らない世界を見せてくれる人だった。

だが。

結婚して年月が経つにつれ、その世界は少しずつ遠くなった。

隆司の心は、いつも未来へ向いていた。

もっと成功したい。

もっと自由になりたい。

もっと世界を知りたい。

美和は違った。

今日の夕飯。

娘たちの笑顔。

家族四人で食卓を囲む時間。

その一日一日が宝物だった。

 

 

だから、すれ違った。

どちらが悪いわけでもない。

ただ。

見ている景色が違った。

離婚した日。

役所を出たあと、美和は泣かなかった。

本当は泣きたかった。

でも泣けば、戻りたくなってしまう。

だから笑った。

「嫌いになったわけじゃない。」

あの言葉は本心だった。

今でも本心だ。

嫌いになったことは一度もない。

ただ。

届かなくなった。

それだけだった。

最近、真奈から聞いた。

「お父さん、今でもお母さんのこと好きみたいだよ。」

思わず吹き出してしまった。

「今さら?」

そう笑った。

でも。

心の奥では少し嬉しかった。

自分も同じだったから。

人は不思議だ。

別れてもなお、人生の一部であり続ける人がいる。

隆司は、その人だった。

美和は便箋を折りたたんだ。

最後に一行だけ書き足す。

――少しだけ、昔の話をしませんか。

封を閉じると、胸が少し軽くなった。

人生はやり直せない。

でも。

語り直すことはできるのかもしれない。

そんな気がした。

第二十四話 理解不能

美和からの手紙を読み終えたあと、神谷隆司はしばらく動けなかった。

部屋は静かだった。

時計の秒針だけが時を刻んでいる。

便箋には、美和らしい丸みのある字が並んでいた。

読み返す。

もう一度読む。

三度目には、文字ではなく、美和の声が聞こえてくる気がした。

「見ている景色が違った。」

その一文だけが胸に残る。

そうだった。

彼女は未来を否定していたわけではない。

ただ。

今を大切にしていた。

自分は逆だった。

未来ばかり見ていた。

成功。

自由。

引き寄せ。

若返り。

世界の秘密。

すべて手に入れようとした。

その間にも、美和は娘たちの成長を見ていた。

季節の移り変わりを見ていた。

夕飯の献立を考えていた。

家族の空気を守ろうとしていた。

どちらが正しかったのではない。

どちらも正しかった。

そして。

どちらも相手を理解しきれなかった。

 

 

隆司はふと思う。

男と女は、言葉で会話しているようで、実は違うものを見ている。

男は未来を作ろうとする。

女は今を育てようとする。

もちろん全員がそうではない。

だが少なくとも、自分たちはそうだった。

だから。

同じ言葉を聞いても、違う意味になる。

「頑張る。」

という言葉一つでも。

隆司は「もっと豊かな未来」を思い浮かべる。

美和は「もっと家族と過ごす時間」を思い浮かべる。

同じ日本語なのに、見えている映像が違う。

それでは、分かり合えるはずがない。

その時。

 

 

隆司は高校時代の出来事を思い出した。

文化祭の準備の日。

美和が突然怒り出したことがあった。

「もういい!」

そう言って帰ってしまった。

当時の隆司は理由が分からなかった。

数日後、美和が言った。

「少し話を聞いてほしかっただけ。」

それだけだった。

解決してほしかったわけではない。

アドバイスが欲しかったわけでもない。

ただ。

隣で聞いてほしかった。

そのことを、二十歳の隆司は理解できなかった。

六十五歳になった今なら分かる。

遅すぎた。

窓の外を見る。

東京の夜景は今日も美しい。

だが、不思議と昔ほど興味が湧かない。

今、見たい景色は別にあった。

体育館前。

海辺の夕焼け。

狭いアパート。

香織が初めて歩いた日。

真奈が眠っていた小さな布団。

それらが、一兆円の夜景よりも価値があるように思えた。

テーブルの上には、美和の手紙。

最後の一文をもう一度読む。

――少しだけ、昔の話をしませんか。

隆司は静かに目を閉じた。

人は過去へ戻れない。

だが。

過去を理解し直すことはできる。

その理解が、未来を書き換えるのなら。

もしかすると。

世界はまだ、自分が思っている以上に柔らかいのかもしれなかった。

第二十五話 認識されなかった世界

神谷隆司は、最近よく夢を見るようになった。

夢というよりも、
別の現実を訪れている感覚だった。

その夜も同じだった。

目を開けると、
見知らぬ部屋だった。

木造の小さな家。

古い柱時計。

窓の外には田んぼが広がっている。

東京ではない。

地方都市だった。

鏡を見る。

そこには今より少し老けた自分がいた。

七十歳くらいだろうか。

髪は白く、
背中も少し曲がっている。

若返っていない。

普通に年齢を重ねた神谷隆司だった。

すると、
奥の部屋から声がした。

「あなた、ご飯できたよ。」

知らない女性だった。

穏やかな笑顔。

優しい声。

だが。

美和ではない。

夢の中の隆司は自然に返事をしている。

「今行くよ。」

食卓には、
二人分の食事が並んでいた。

静かな暮らし。

決して裕福ではない。

しかし、
穏やかだった。

 

 

その女性はよく笑う。

気遣いもできる。

一緒にいて安心する。

きっと良い妻なのだろう。

それでも。

胸の奥に、
ぽっかり穴が空いている。

夢の中の隆司は、
食事をしながら思っていた。

何かが足りない。

その「何か」が分からない。

食後。

押し入れを整理していると、
一冊の卒業アルバムが出てきた。

中学校。

二年二組。

ページをめくる。

美和はいない。

名前もない。

写真もない。

最初から存在しない。

その瞬間、
夢の中の隆司は激しく動揺した。

「違う……」

記憶がおかしい。

体育館前。

昼休み。

笑い声。

あの少女。

全部ある。

なのに、
現実には存在しない。

夢の中の隆司は必死で思い出そうとする。

名前。

顔。

声。

しかし、
少しずつ霧の中へ消えていく。

 

 

「思い出せ……」

叫んだ瞬間、
目が覚めた。

夜明け前だった。

隆司は汗びっしょりになっていた。

胸が苦しい。

美和の顔が見たい。

それだけを思った。

窓を開ける。

冷たい朝の空気が流れ込む。

鳥の声が聞こえる。

隆司は深呼吸した。

人は、
認識している世界だけを現実だと思っている。

しかし。

認識されなかった世界も、
どこかで存在している。

認識されなかった出会い。

認識されなかった恋。

認識されなかった娘たち。

認識されなかった人生。

それらは、
消えたのではない。

自分が選ばなかっただけなのだ。

だからこそ。

今この人生が、
どれほど奇跡だったか。

隆司は初めて、
心の底から感謝した。

美和に。

香織に。

真奈に。

そして。

中学二年の春、
あの日の偶然に。

第二十六話 愛とは何か

美和と会う約束の日まで、一週間。

隆司は毎日、自分自身に問い続けていた。

愛とは何なのか。

六十五年生きても、
答えは出ていない。

若い頃は、
愛とは恋だと思っていた。

一緒にいたい。

触れたい。

抱きしめたい。

その衝動が愛だと思っていた。

結婚してからは、
家族を守ることが愛だと思った。

働くこと。

稼ぐこと。

安心を与えること。

それが夫の愛だと思っていた。

離婚した後は、
忘れられないことが愛なのだと思った。

だが。

今は違う。

書斎の窓から朝日が差し込む。

隆司は静かにコーヒーを飲んでいた。

ふと、
美和の手紙を開く。

もう何十回読んだか分からない。

その中にある一文。

 

 

――少しだけ、昔の話をしませんか。

この言葉には、
責める気持ちがない。

後悔だけでもない。

やり直したい、
とも書いていない。

ただ。

話をしたい。

それだけだった。

その時、
隆司はあることに気づく。

愛とは。

相手を自分のものにすることではない。

理解することでもない。

まして、
支配することでもない。

相手が、
自分とは違う世界を生きていることを認めること。

それが、
愛なのかもしれない。

若い頃の自分は、
美和を理解したかった。

理解できれば安心できると思っていた。

しかし。

理解できなかった。

そして、
理解できないことを恐れた。

今は違う。

理解できなくてもいい。

彼女は彼女の宇宙を生きている。

自分は自分の宇宙を生きている。

その二つが、
一瞬でも重なったこと。

それ自体が奇跡だった。

隆司は静かに笑った。

 

 

「そういうことだったのか……」

中学二年。

体育館前。

海辺。

結婚式。

狭いアパート。

香織の誕生。

真奈の誕生。

離婚届。

全部。

間違いではなかった。

全部。

愛の形だった。

その形が変わっただけなのだ。

スマートフォンを見る。

美和との約束は、
三日後になっていた。

会えば、
現実が動き始める。

もしかすると、
何も変わらないかもしれない。

昔話をして、
笑って別れるだけかもしれない。

それでもいい。

隆司はそう思えた。

以前なら、
未来を変えようとしていただろう。

関係を修復しよう。

やり直そう。

そんなことを考えたはずだ。

しかし今は違う。

未来を操作するのではない。

ただ、
今という時間を丁寧に生きる。

それだけで十分なのだ。

窓の外では、
朝日が東京の街を照らし始めていた。

その光を見ながら隆司は思う。

世界は思考でできている。

その考えは今も変わらない。

だが、
もう一つ大切なことがあった。

思考が世界を変えるのではない。

愛が、
思考そのものを変えていく。

そしてその変化が、
新しい世界を生み出していくのだと。

第二十七話 最後の再会

待ち合わせは、昔よく歩いた川沿いの遊歩道だった。

午後三時。

空は高く、風は穏やかだった。

神谷隆司は三十分も早く着いていた。

高校時代の初めてのデートと同じだった。

結局、人は変わらない。

待つ人は、一生待つ。

ベンチに腰掛け、川の流れを眺める。

子どもたちが走り回り、若い夫婦が笑い合っている。

その光景を見ながら、隆司は静かに息を吐いた。

やがて、一人の女性がゆっくり歩いてきた。

美和だった。

白いブラウス。

薄いグレーのカーディガン。

髪には白いものが混じっている。

歩く速度も、昔より少しだけゆっくりだ。

それでも。

笑った瞬間だけは、中学二年の少女がそこにいた。

「久しぶり。」

「久しぶり。」

二人とも笑った。

ぎこちなさは、不思議となかった。

何十年も毎日会っていたような自然さだった。

「若いね。」

美和が言った。

「気持ち悪いだろ。」

「ちょっとね。」

二人は同時に笑った。

その笑い方まで昔と同じだった。

 

 

しばらく歩く。

昔話ばかりだった。

高校の先生。

文化祭。

体育館。

海。

初めての喫茶店。

狭いアパート。

香織が味噌汁をこぼした日のこと。

真奈が自転車の練習で泣いた日のこと。

思い出は、驚くほど残っていた。

忘れたと思っていた出来事まで、次々と蘇る。

歩き疲れ、公園のベンチに座った。

少し沈黙が続く。

美和が空を見上げた。

「ねぇ。」

「うん。」

「私たち。」

「うん。」

「幸せだったよね。」

隆司は返事ができなかった。

胸の奥が熱くなる。

涙は出なかった。

その代わり、静かな納得があった。

「幸せだった。」

やっとそれだけ言えた。

美和は頷いた。

「離婚したことは後悔してる?」

突然の質問だった。

隆司は少し考える。

「後悔はしてる。」

正直に答えた。

「でも。」

「うん。」

「あの時の俺たちは、あれしか選べなかった。」

美和は長く息を吐いた。

「そうだね。」

二人とも、自分なりに精一杯だった。

誰かを傷つけようとしたわけではない。

ただ、見ている世界が違っていただけだった。

 

 

夕暮れが近づく。

川面が黄金色に染まり始める。

美和は静かに立ち上がった。

「ありがとう。」

「何が?」

「会ってくれて。」

隆司も立ち上がる。

「こちらこそ。」

少しだけ距離が縮まる。

抱きしめることもできた。

手を握ることもできた。

しかし二人は何もしなかった。

ただ笑った。

その笑顔だけで十分だった。

別れ際、美和が振り返る。

「神谷。」

「うん?」

「またね。」

隆司は少し驚いた。

またね。

さようならではない。

またね。

その一言が、何より嬉しかった。

美和はゆっくり歩いていく。

その後ろ姿を見送りながら、隆司は思った。

人生には、やり直しはない。

でも。

もう一度、笑い合うことはできる。

それだけで、人は救われることがあるのだ。

第二十八話 青春は終わらない

美和と再会してから数日。

神谷隆司は、不思議なくらい穏やかだった。

胸を締めつけていた何かが、静かにほどけていた。

朝、窓を開ける。

風が入る。

鳥の声が聞こえる。

そんな当たり前のことが、少しだけ愛おしい。

隆司は思う。

青春とは何だったのだろう。

昔は、「若さ」だと思っていた。

体力。

恋。

未来への希望。

それが青春だと思っていた。

しかし今は違う。

青春とは。

何かを心から信じられる時間のことだ。

十五歳の自分は、美和を信じていた。

未来を信じていた。

世界は広いと信じていた。

だから毎日が輝いていた。

六十五歳の今。

肉体は若返っている。

しかし、それだけでは青春にはならない。

心が未来を信じられる時。

その瞬間だけ、人は何歳でも青春を生きている。

 

 

隆司はノートを開いた。

高校生の頃から書き続けてきた願望ノート。

最後のページは空白だった。

昔なら、こう書いただろう。

『もっと成功する。』

『もっと若返る。』

『もっと豊かになる。』

しかし今は違う。

ペンをゆっくり動かす。

『今日という一日を、大切に生きる。』

それだけを書いた。

不思議だった。

たった一行なのに、これまでで一番しっくりきた。

午後。

真奈から電話が入る。

「お父さん。」

「どうした?」

「最近、なんか優しくなった?」

隆司は笑った。

「そうか?」

「うん。」

「何も変わってないよ。」

「変わったよ。」

真奈は嬉しそうに笑う。

「お母さんに会ったから?」

「それもあるかな。」

電話を切ったあと、香織からもメッセージが届いた。

『今度みんなで食事しよう。』

短い文章。

だが、その一文だけで十分だった。

隆司は窓の外を見る。

東京の空は今日も青い。

 

 

ふと。

体育館前の昼休みが浮かぶ。

笑っている美和。

友人たち。

春の風。

あの日は終わったのではない。

あの日があったから、今がある。

青春とは、過去ではない。

人生のどこかに置き忘れるものでもない。

思い出を抱えながら、それでも今日を生きようとする心。

それこそが青春なのだ。

隆司は静かに目を閉じた。

世界は思考でできている。

その考えは変わらない。

だが今は、その続きを知っている。

世界は思考だけでは完成しない。

人を想う心があって初めて、人生は本当の意味で形になる。

そう思えた時、六十五歳の神谷隆司は、もう一度、新しい青春の入口に立っていた。

第二十九話 世界は幻想かもしれない

神谷隆司は、六十五歳になっても答えを探していた。

世界とは何か。

人間とは何か。

愛とは何か。

その答えを求めて、成功を追いかけた。

金を得た。

自由を得た。

健康を得た。

若ささえ手に入れた。

それでも最後まで残った問いがある。

ある朝。

隆司は書斎で静かにコーヒーを飲んでいた。

窓の外には東京の街が広がっている。

無数の人が歩き、車が走り、電車が街を縫うように進んでいく。

その光景を見ながら、ふと思った。

 

 

「もし、この世界が幻想だったとしても。」

その続きを、自然と口にしていた。

「悲しみは本物だった。」

美和と出会った日の胸の高鳴り。

香織を初めて抱いた時の涙。

真奈が「お父さん」と呼んだ声。

離婚届に判を押した日の静けさ。

西田の訃報を聞いた時の喪失感。

それらは、誰にも否定できない。

世界の正体が何であれ、心が震えた事実だけは消えない。

その瞬間、隆司は長年抱えていた力みが抜けるのを感じた。

思考は現実になる。

その考えは、今も信じている。

だが、若い頃の自分は少し誤解していた。

思考は、世界を「支配」するためのものではなかった。

世界を「選ぶ」ためのものだった。

人は、自分がどんな意味を与えるかによって、同じ出来事を幸福にも不幸にも変えてしまう。

離婚もそうだった。

昔は失敗だと思っていた。

だが今は違う。

あれほど深く愛したからこそ、別れも深かった。

愛がなければ、あれほど苦しまなかった。

苦しみがあるということは、確かに愛していた証だった。

 

 

隆司はノートを開いた。

高校時代から書き続けてきた願望ノート。

最後のページの下に、静かに一文を書き加える。

『人生に起きたことは、すべて私を育てるために起きた。』

ペンを置く。

不思議と、もう新しい願望は浮かばなかった。

十分だった。

世界が幻想でも構わない。

自分は、この人生を生きた。

それだけで十分だと思えた。

その日の夕方。

香織と真奈から同時に連絡が来た。

『今度の日曜日、三人でご飯食べよう。』

短いメッセージ。

隆司は静かに微笑む。

未来とは、遠くにあるものではない。

こうして誰かと食卓を囲む約束もまた、未来なのだ。

彼は空を見上げた。

青空の向こうには、無数の世界線が広がっているのかもしれない。

だが、自分が生きるのは、この世界だ。

そして、この世界を愛そうと思った。

第三十話 体育館前

春だった。

隆司は一人、中学校の前に立っていた。

校舎は建て替えられていた。

体育館も新しくなっている。

校庭の木も、昔とは違う。

それでも。

風だけは、あの日と同じ匂いがした。

校門の外から、静かに中を眺める。

昼休みらしい。

生徒たちの笑い声が聞こえてくる。

その瞬間。

時間がゆっくりと重なった。

十五歳の神谷隆司。

六十五歳の神谷隆司。

二人が同じ場所に立っているような、不思議な感覚だった。

体育館前を見る。

もちろん、美和はいない。

半世紀が過ぎている。

いるはずがない。

しかし。

隆司には見えた。

友達と笑い合う少女。

胸を張って得意そうに笑う姿。

春風に揺れるセーラー服。

無邪気な笑い声。

その光景は、記憶というより、今もそこに存在している現実のようだった。

 

 

隆司は目を閉じる。

そして、十五歳の自分に語りかけた。

「安心しろ。」

春風が吹く。

「お前はたくさん失う。」

少し笑う。

「たくさん泣く。」

深く息を吸う。

「たくさん後悔もする。」

それでも。

「お前は、ちゃんと愛する。」

その愛は永遠ではない。

結婚も永遠ではない。

若さも永遠ではない。

命さえ永遠ではない。

それでも。

愛した時間は消えない。

笑った時間も消えない。

娘たちが生まれた瞬間も。

美和と夕焼けを見た海も。

狭いアパートで未来を語り合った夜も。

全部、自分の中で生き続ける。

隆司は静かに目を開けた。

遠くからチャイムが鳴る。

昼休みの終わりを告げる音だった。

生徒たちが教室へ走っていく。

その音を聞いた瞬間、隆司はふっと笑った。

「ありがとう。」

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。

 

 

美和か。

娘たちか。

両親か。

友人たちか。

それとも、この人生そのものか。

校門を離れ、ゆっくり歩き始める。

背中に春の日差しが降り注ぐ。

若返った身体は軽かった。

だが、その軽さ以上に、心が軽かった。

世界は思考でできている。

その考えは、人生の多くを支えてくれた。

しかし、六十五歳になった神谷隆司が最後にたどり着いた答えは、もっと静かなものだった。

人生は、思い通りになることが幸福なのではない。

思い通りにならなかった出来事さえ、自分の人生として愛せるようになった時、人は本当に自由になる。

隆司はもう一度だけ振り返った。

体育館前には、春の光が静かに降り注いでいる。

あの日の少年は、まだそこで恋をしていた。

そして、その少年の恋は、六十五歳になった今もなお、人生という長い物語を照らし続けていた。

神谷隆司は微笑み、前を向いて歩き出した。

新しい春へ。

終わりではなく、これからも続いていく人生へ。

 

 

 

 

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