淡く拭いきれない

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六十五歳になった、でもあの日の光だけは少し異常だ。

いや、正確に言うと、光そのものではない。
光に照らされていた世界の方だ。

 

第1話 体育館前

中二の六月だったと思う。
梅雨に入る直前で、湿気だけが先に来ていた。

 

昼休み。

校舎の空気は少し汗臭く、廊下にはなにか青臭い匂いが混ざっていた。
男子は騒ぎ、女子は固まり、教師は職員室に消えていた。

あの頃の学校というのは、小さな宇宙だった。

 

僕は体育館へ向かう途中だった。
バスケットボールでも借りようとしていたのかもしれない。
そのへんの記憶は曖昧だ。

ただ、体育館前の少し開けた場所に、

女子が数人集まって笑っていたことだけは、

異様にはっきりしている。

 

その中心に、彼女がいた。

後に僕の妻になる女だった。

もちろん、その時はそんなこと知るはずもない。

 

彼女は笑っていた。
本当に楽しそうに。

女子同士で何を騒いでいたのかというと、今思えば実にくだらない。

 

 

「私のほうが大きい」
「絶対うそ!」
「ほら見て!」

 

そんなことを言いながら、セーラー服に包まれた胸を張っていた。

そして、
「ホック外れる外れる!」
と騒いでいた。

 

今なら、そんな場面だけ切り取れば、ただの馬鹿っぽい思い出だ。

でも違った。

あの瞬間、僕は人生で初めて、

「ああ、女って、生き物として違うんだ」

と思った。

 

胸がどうとか、そういう単純な話ではなかった。

熱量だった。

命の勢いみたいなものだった。

 

男子だけで閉じていた世界に、

突然、別の色彩が流れ込んできた感じだった。

 

彼女はまだ、自分がどれほど眩しい存在かは知らなかった。

そこがまた凄かった。

無邪気だった。

計算なんて何もない。

ただ、自分たちの身体が変化していくことを面白がっているだけだった。

なのに、その無防備さが、世界そのものを変えてしまうくらい強烈だった。

 

僕はその時、自分の人生が少しズレた気がした。

いや。

始まったのかもしれない。

今思えば、あの日からだ。

 

世界を

「固定された物体」ではなく、
「流動する何か」
として感じ始めたのは。

光も、
空気も、
彼女の笑い声も。

全部が振動しているように思えた。

 

最近、僕は時々考える。

一兆円超の資産を作ったことも
若返っていったことも

全部、
あの日の延長だったのではないかと。

 

僕は世界を書き換えたかったのではない。

たぶん。

もう一度、
あの昼休みの続きを見たかっただけなんだと思う。

第2話 夏の湿気

中学時代の記憶というのは、不思議と映像より先に匂いで来る。

夏前の湿気。

ワックスの乾ききっていない廊下。

古い木造校舎の熱。

少し酸っぱい体操服。

そして、彼女の髪から時々流れてきた、シャンプーの匂い。

六十五歳になった今でも、それらは急に戻ってくる。

 

 

いわゆるタワマンの四十二階。
窓の外には大阪の夜景が広がっている。

若い頃に想像していた「成功者の部屋」に、僕は今たしかに住んでいる。

資産は一兆円を超えた。

身体も妙に若返っている。
医者は首を傾げるが、僕自身はそこまで驚いていない。

 

世界は固定されていない。

そう思って生きてきた。

肉体も、
時間も、
現実も。

人間が「そうだ」と認識しているから、そう見えているだけだ。

僕は長い時間をかけて、その認識を少しずつ書き換えてきた。

だが、それでも・・・

六月の湿った空気の記憶には勝てない。

 

あの頃、彼女は本当によく笑った。

男子に媚びるような笑い方ではない。

世界そのものが面白くて仕方ない、という笑い方だった。

だから周囲の空気まで変わった。

彼女がいる場所だけ、少し明るかった。

大げさではなく、本当にそうだった。

 

僕は教室の後ろの席から、ぼんやり彼女を見ていた。

話しかける勇気なんてなかった。

ただ見ていた。

それだけで、一日が少し特別になった。

 

今の若い人たちは、
「推し」
なんて言葉を使うのかもしれない。

でも、あれはもっと原始的だった。

憧れというより、
衝撃だった。

「こんな存在がこの世にいるのか」という。

 

僕はその頃から、世界を少し疑い始めた。

本当にこれは、ただの物質世界なんだろうか、と。

なぜ彼女が笑うだけで、空気まで変わるのか。

なぜ夏の光は、あんなに胸を締めつけるのか。

説明できないものが、世の中には多すぎた。

いや

説明できないもののほうが、本当は大事なのかもしれなかった。

 

スマホが震えた。

次女からLINEだった。

『熱中症気をつけてね』

短い文章。

それだけだった。

それなのに、なぜか少し泣きそうになった。

 

人間の幸福なんて、本当に曖昧だ。

お金があっても孤独な夜はある。

若返っても、戻れない時間はある。

でも

娘からの短いLINEひとつで、
世界が少し柔らかくなる瞬間もある。

 

だから最近は思う。

絶対的な幸福なんて、たぶん存在しない。

それでも

「ああ、悪くないな」と思える夜があるなら、
人生は、それで十分なのかもしれない。

 

第3話 世界にはこんな女がいる

中学二年の頃、

僕はまだ「女」という存在をよく知らなかった。

 

もちろん、知識としては知っている。
クラスにも女子はいるし、テレビにも出ている。

でも、それはどこか遠い存在だった。

 

男子だけで馬鹿みたいに騒いで、
汗臭いまま走り回って、
未来なんてぼんやりしていて。

世界は平面だった。

 

そこに彼女が現れた。

いや、実際には同じクラスにいただけだ。
突然転校してきたわけでもない。

なのに、ある日を境に、
彼女だけ輪郭が変わった。

 

女子というより、
「女」という感じがした。

その違いを、当時の僕はうまく説明できなかった。

たぶん今でも完全には説明できない。

ただ、生命力だった。

 

 

笑う時、
彼女は全身で笑った。

怒る時も、
本気で怒った。

机に突っ伏して笑い転げることもあったし、
友達とくだらないことで喧嘩もした。

感情が全部、生きていた。

だから見ているこっちまで、
妙に胸が熱くなった。

 

ある日、放課後の教室で、
彼女が窓際に立っていた。

西日が差し込んで、
髪が少し茶色く見えた。

ただそれだけなのに、
僕はしばらく動けなかった。

世界が止まったみたいだった。

 

後年、僕は色々な場所へ行った。

ニューヨークの高級ホテル。
ドバイの夜景。
モナコの海。

どれも綺麗だった。

でも、今でも時々思う。

本当に世界が美しかったのは、
あの西日の教室だったんじゃないか、と。

 

人間の感受性というのは不思議だ。

年を取ると知識は増える。

金も増える。

経験も増える。

でも。

「世界に初めて触れた感覚」

だけは、
あの頃にしかない。

 

最近、僕は時々思う。

若返りというのは、
肉体の話じゃないのかもしれない。

本当に若いというのは。

世界を見るたび、
驚けることなんじゃないか。

彼女を見ていた頃の僕は、
毎日少しだけ世界に驚いていた。

 

第4話 帰り道

彼女と初めて二人で帰った日のことを、僕は妙に覚えている。

恋人同士だったわけじゃない。

たまたまだ。

部活が休みで、
帰る方向が同じで、
なんとなく並んで歩いただけ。

ただ、それだけだった。

 

夕方だった。

夏前の空気はまだ明るく、
アスファルトの熱だけが残っていた。

 

彼女は自転車を押しながら歩いていた。

「あっついねー」

と言って、
制服の襟をぱたぱたさせていた。

 

その仕草を見ているだけで、
僕は緊張していた。

会話なんてほとんど覚えていない。

 

テレビの話だったか、
先生の悪口だったか。

本当にくだらないことだったと思う。

でも、
並んで歩く速度だけは覚えている。

 

 

人間には、
「この速度が心地いい」
というものがある。

彼女と歩く速度は、
不思議なくらい自然だった。

沈黙も苦しくなかった。

 

途中、小さな川沿いを通った。

夕陽が水面に反射していた。

彼女は急に立ち止まり、
川を見ながら言った。

 

「なんかさー」

「この時間って、ずっと続きそうじゃない?」

僕はうまく答えられなかった。

でも内心、
本当にそう思った。

 

あの頃は、
時間が終わるなんて想像できなかった。

青春は永遠ではない、
なんて言葉も知らなかった。

ただ、
明日も来週も来年も、
この空気が続く気がしていた。

 

もちろん、終わった。

全部終わった。

中学も、
青春も、
結婚も。

娘たちは大人になり、
彼女とは離婚し、
僕は六十五歳になった。

 

それでも・・・

時々、
高層マンションの窓から夕焼けを見ると、
あの帰り道が重なる。

不思議なものだ。

 

人間は過去を思い出しているつもりで、
本当は今も、
その時間の中に少し住んでいるのかもしれない。

 

僕は昔から、
時間は一本線ではない気がしていた。

過去は消えていない。

認識できなくなっているだけだ。

だから、
夕焼けを見ると、
中学二年の僕がまだどこかにいる感じがする。

 

彼女の隣を歩いている。

何も持っていない。

金もない。

未来もわからない。

 

でも、
世界だけは確かに輝いている。

あれも、
ひとつの幸福だった。

第5話 彼女は覚えていない

離婚してから十年以上経っていた。

娘たちとは連絡を取っているが、
元妻とはほとんど会っていない。

 

嫌いになったわけではない。

ただ、
人生というのは時々、
自然に離れていく。

それだけだ。

 

ある日、長女の結婚関係の用事で、
久しぶりに元妻と顔を合わせた。

駅前の喫茶店だった。

彼女は少し太っていた。

膝が痛いと言っていた。

髪にも白いものが混ざっていた。

でも笑うと、
一瞬だけ中学時代の顔になる。

 

あれは不思議だ。

人間は老いる。

間違いなく老いる。

なのに、
昔の面影だけは、
時間の奥で消えずに残っている。

 

 

コーヒーを飲みながら、
僕は何気なく言った。

「覚えてる?」

「何を?」

「体育館の前で騒いでた時」

彼女は少し首を傾げた。

「え、なにそれ」

「ほら、昼休み」

「全然覚えてない」

そう言って笑った。

僕も笑った。

でも内心、
少し衝撃を受けていた。

 

僕にとっては、
人生が始まった瞬間みたいな記憶だった。

世界の色が変わった日だった。

なのに彼女は、
まるで昨日の献立を忘れるみたいに、
簡単に笑っていた。

 

帰り道、
僕は一人で夜の街を歩いた。

不思議と悲しくはなかった。

むしろ少し救われた。

人間の記憶は平等じゃない。

誰かにとって宇宙が変わる瞬間でも、
別の誰かには、
ただの昼休みだったりする。

 

でも、
それでいいのかもしれない。

大事なのは、
彼女が覚えているかどうかじゃない。

あの時、
確かに僕は世界に触れた。

それだけは、
消えない。

 

信号待ちをしている時、
ガラスに映った自分を見た。

六十五歳には見えない顔。

若返っている。

それは事実だ。

 

けれど。

本当に若かったのは、
やっぱり、
あの昼休みの僕だった気もする。

世界を見るだけで、
胸が震えていた頃の。

第6話 最初の願い

僕が初めて「思考は現実になるかもしれない」と感じたのは、

高校一年の頃だった。

もちろん、その時はそんな言葉を知らない。

パム・グラウトも、
引き寄せも、
量子論も知らなかった。

 

ただ、
奇妙な感覚だけはあった。

強く思ったことが、
妙に現実になる。

そんな感覚だ。

 

例えば。

高校に入ったばかりの頃、
僕は彼女と同じクラスになりたいと異様に願っていた。

寝る前も考えた。

通学中も考えた。

ノートにも書いた。

「同じクラスになる」と。

 

今思えば、少し気持ち悪いくらい集中していた。

そして実際、
同じクラスになった。

偶然と言えば偶然だ。

でも、その時の僕には、
妙に「当然」の感じがした。

ああ、
世界は思ったより柔らかいのかもしれない、と。

 

 

そこからだった。

僕は少しずつ、
現実との付き合い方を変えていった。

未来を先に感じる。

実現した空気を先に生きる。

すると現実が後から追いついてくる。

そんな感覚だった。

 

もちろん、
全部が叶ったわけじゃない。

むしろ叶わなかったことのほうが多い。

でも、
奇妙な一致が増えていった。

偶然にしては出来すぎている。

そんなことが何度も起きた。

 

最近、
僕は時々思う。

人生というのは、
「努力」だけでも、
「運」だけでもない。

もっと曖昧な、
意識と世界の中間みたいな場所で、
何かが決まっている気がする。

 

窓の外では雨が降っていた。

六十五歳の雨は静かだ。

若い頃みたいに、
雨だけで胸が騒ぐことは少なくなった。

 

でも。

湿った空気の匂いだけは、
時々、中学時代へつながる。

彼女の髪。

体育館。

夏前の廊下。

世界がまだ、
無限だった頃へ。

第7話 可能性

最近、夢がおかしい。

夢というより、
別の記憶に近い。

最初はただの加齢かと思った。

だが、
どうも違う。

 

夢の中で僕は、
別の人生を生きている。

彼女と結婚しなかった人生。

東京へ行った人生。

教師になった人生。

娘たちが生まれていない人生。

逆に、
男の子がいた人生。

妙にリアルなのだ。

夢特有の曖昧さがない。

空気の温度まである。

 

特に奇妙だったのは、
「彼女と結婚しなかった人生」だった。

夢の中の僕は、
かなり成功していた。

今以上に。

世界的企業を持ち、
海外で暮らし、
自由そのものみたいな人生だった。

 

 

だが。

どこか静かすぎた。

部屋が広すぎた。

夜景が冷たかった。

その世界の僕は、
時々、説明できない喪失感に襲われていた。

 

何を失ったのかわからない。

なのに、
ずっと足りない。

そして夢の終わり際、
中学時代の彼女が、
体育館前で笑っていた。

そこで目が覚めた。

 

僕はしばらく天井を見ていた。

最近、本当に思う。

人生は一本じゃないのかもしれない。

人間が認識している「今」は、
無数の可能性の中の一つに過ぎない。

僕らは、
その一つを掴みながら生きている。

でも時々、
別の流れが見える。

そんな感じだ。

 

もちろん、
証明なんてできない。

ただ。

彼女を見た瞬間、
世界が変わった感覚だけは、
今も本物だと思っている。

だから、
あの出会いを含まない人生を想像すると、
どこか世界の色が薄い。

 

幸福というのは不思議だ。

金額では測れない。

成功でも決まらない。

人生のどこかで、
「世界に触れた瞬間」があるかどうか。

本当はそれだけなのかもしれない。

第8話 一度目の人生

最近、娘たちは時々僕を「変な人」扱いする。

特に長女だ。

「お父さんってさ」

「昔から、ちょっと現実感ないよね」

笑いながらそう言う。

たしかにそうかもしれない。

昔から僕は、
「現実」という言葉にあまり実感がない。

 

例えば、
この身体。

本当に固定された物体なんだろうか。

最近の僕は、
時々、自分の手を見ながら思う。

光の集まりみたいだな、と。

 

もちろん、
頭がおかしくなったわけじゃない。

ちゃんと税金も払うし、
投資判断もするし、
社会生活もしている。

だが。

深いところでは、
世界を「固体」だと思えない。

もっと流動的なものに感じる。

 

娘たちには、
そこが少し怖いらしい。

特に長女は、
現実主義だ。

努力。
計画。
積み重ね。

そういうものを信じている。

 

もちろん、
それも正しい。

僕だって努力した。

ただ、
努力だけでは説明できない流れが、
人生にはある気がしている。

 

 

僕は最近、
自分の人生を「一度目」と呼ぶことがある。

変な意味ではない。

やり直したいわけでもない。

ただ、
「別の人生も確かに存在していた」
という感覚がある。

 

選ばなかった進路。

言わなかった言葉。

結婚しなかった未来。

そういうものが、
完全には消えていない気がする。

 

コーヒーを淹れながら、
ふと思う。

もし中学二年のあの日、
僕が体育館前を通っていなかったら。

もし彼女を見ていなかったら。

僕は今、
誰になっていたんだろう。

 

でも。

たぶん、
今の僕ではない。

それだけはわかる。

 

人生は、
大事件だけで変わるわけじゃない。

昼休みの笑い声ひとつで、
宇宙ごと変わることがある。

第9話 思考は現実になる

僕は若い頃から、
ノートを書く癖があった。

日記ではない。

願望ノートに近い。

 

欲しいもの。
なりたい自分。
会いたい人。
住みたい場所。

そういうものを、
静かに書き続けていた。

誰にも見せたことはない。

見せたら気味悪がられると思っていた。

 

実際、
今読み返しても少し怖い。

書いたことが、
妙に現実になっているからだ。

「海外で自由に暮らす」

「大金を得る」

「若々しい身体」

「人に縛られない生活」

驚くほど実現している。

 

もちろん、
全部がノートのおかげとは思わない。

努力もした。

行動もした。

失敗もした。

でも、
現実が先に決まっていて、
僕はそこへ導かれていたような感覚もある。

 

 

最近は、
逆に怖くなる時がある。

思考が現実化するなら、
不安もまた現実化するのではないか。

実際、
嫌な予感ほど当たる時がある。

だから今は、
なるべく静かな気持ちで世界を見るようにしている。

 

夜、
窓際でコーヒーを飲んでいた。

街の光が遠くで揺れている。

ふと、
昔のノートを開いた。

ページの端に、
中学時代の字で書かれていた。

「彼女とずっと一緒にいたい」

 

僕は少し笑った。

結局、
一番強い願いほど、
綺麗には叶わないものらしい。

第10話 宝くじ

十二億円が当たった時、僕は案外冷静だった。

もちろん驚きはした。

手も震えた。

何度も数字を確認した。

だが、
テレビで見るような絶叫は出なかった。

 

むしろ妙な静けさがあった。

「ああ、やっぱり来たか」

そんな感覚に近かった。

自分でも嫌になるくらい、

その頃の僕は、
「現実は動く」
という感覚に慣れ始めていた。

もちろん、
誰かに言えば危ない人だと思われる。

だから黙っていた。

 

元妻にさえ、
本当の感覚は話していない。

彼女には、
「投資が上手くいった」
くらいにしか言わなかった。

たぶん、そのほうがいい。

人間には、
説明しないほうが壊れないものがある。

 

当選した日の夜、
僕は一人でコンビニの駐車場にいた。

高級ホテルへ行くでもなく、
誰かに電話するでもなく、
ただ缶コーヒーを飲んでいた。

 

夏の終わりだった。

アスファルトがまだ少し熱を持っていた。

遠くで虫が鳴いていた。

その時、
ふと思った。

「結局、幸福って何なんだろうな」

 

 

十二億。

若い頃の僕なら、
人生が完成する金額だと思っただろう。

でも実際には、
心はそこまで変わらなかった。

 

腹も減る。

孤独な夜も来る。

元妻を思い出す。

娘からLINEが来るだけで嬉しい。

人間は、
急に別の生き物にはならない。

ただ、
選択肢が増えるだけだ。

 

僕はその金を元に、
さらに資産を増やしていった。

気づけば、
自分でも現実感のない数字になっていた。

だが、
不思議なことに。

金が増えるほど、
中学時代の記憶は鮮明になった。

 

あの昼休み。

体育館前。

セーラー服。

笑い声。

なぜか、
そちらのほうが現実だった。

 

高層マンションの夜景より。

銀行口座の数字より。

人間の記憶というのは、
本当に妙なものだ。

 

最近は思う。

幸福というのは、
「所有」ではないのかもしれない。

世界が、
どれだけ鮮やかに見えたか。

本当は、
それだけなのかもしれない。

 

窓ガラスに、
自分の顔が映っていた。

六十五歳にしては若い。

だが、
その奥にいるのは、
今でも体育館前で立ち尽くしている中学生だった。

世界に圧倒されていた頃の僕だ。

第11話 若返る

五十代の後半くらいからだった。

「あれ?」

と思う瞬間が増えた。

 

まず疲れにくい。

朝の目覚めが軽い。

肌の張りが戻る。

髪にも艶が出る。

 

最初は気のせいだと思っていた。

だが、
周囲の反応が変わり始めた。

「本当に六十代ですか?」

「何かやってるんですか?」

「若いですね」

医者まで首を傾げた。

 

もちろん、
食事も気をつけていた。

運動もしていた。

睡眠も大事にした。

だが、
それだけでは説明できない感覚があった。

 

僕は長い間、
「身体は認識の影響を受ける」
と思って生きてきた。

老化とは、
社会全体が共有している強力なイメージなのではないか。

 

人はある年齢になると、
「老いるものだ」
と思い込み始める。

そして身体が、
そのイメージに従う。

 

逆に言えば。

身体を固定物として見なければ、
変化の仕方も変わるのではないか。

僕はずっと、
そんなことを考えていた。

 

 

もちろん、
誰かに説明したことはない。

長女なら間違いなく呆れる。

「お父さんまた始まった」

と言うだろう。

 

でも、
実際に身体は変わっていった。

最近は、
鏡を見るたび少し不思議な感じがする。

若返っている。

なのに。

心だけは、
むしろ昔より過去へ近づいている。

 

特に、
中学時代の記憶。

あれだけは、
年々鮮明になっていく。

 

夏の光。

セーラー服。

笑い声。

湿った空気。

 

なぜだろう。

若返るというのは、
肉体だけの話ではないのかもしれない。

人間は本当に若かった場所へ、
最後には戻っていくのかもしれない。

 

夜、
洗面所で顔を洗った。

鏡の中の自分は、
六十五歳には見えなかった。

だが、
ふとした瞬間。

ほんの一秒だけ。

鏡の奥に、
中学二年の自分が立っている気がした。

 

錯覚だ。

たぶん。

でも最近、
僕はその「たぶん」を、
以前ほど強く信じられなくなっている。

第12話 一兆円

資産が一兆円を超えた時も、やはり現実感はなかった。

数字というのは、
あるところを超えると、
急に感覚から離れていく。

 

一千万までは大きい。

一億も大きい。

十億になると、
少し世界が変わる。

だが、
一兆となると、
もう「数字」というより現象に近い。

 

もちろん、
生活は変わった。

移動は自由になった。

時間も自由になった。

誰かに頭を下げる必要も、
ほとんどなくなった。

世界中どこでも行ける。

欲しい物は大抵手に入る。

若い頃、
想像していた「成功」は、
たしかにそこにあった。

 

だが。

成功とは、
案外静かなものだ。

高級ホテルの最上階でも、
夜は普通に静かだ。

 

腹も減る。

眠くもなる。

孤独な日は来る。

人間は、
金だけでは別の存在になれない。

 

 

ある日、
海外のホテルの窓から海を見ていた。

景色は完璧だった。

映画みたいだった。

でも。

 

突然、
中学時代の帰り道を思い出した。

彼女と並んで歩いた川沿い。

夕方の風。

自転車の音。

僕は少し笑ってしまった。

 

結局、
人生というのは値段じゃない。

人間の心に残るものは、
案外どうでもいい瞬間だったりする。

 

最近、
僕はますます思う。

幸福というのは、
「達成」ではない。

むしろ。

「世界が生きて見える瞬間」
のことなんじゃないか。

 

中学時代、
彼女を見ていた頃の僕は、
毎日少し世界に驚いていた。

 

今の僕は、
世界の仕組みをかなり理解した気でいる。

思考。

現実。

意識。

エネルギー。

そういうものの流れも、
少しわかる。

でも。

 

純粋に世界へ驚いていたのは、
やっぱり、
あの頃の僕だった気がする。

金では買えないものがある、
なんて陳腐な言葉は好きじゃない。

だが。

金では戻れない光景は、
確かにある。

第13話 娘たち

娘たちは、
僕のことを完全には理解していない。

それでいいと思っている。

むしろ、
完全に理解される人間なんて、
たぶん存在しない。

 

長女は理性的だ。

現実的とも言う。

仕事も堅実で、
物事を順序立てて考える。

 

昔から、
僕の「不思議な話」を少し警戒していた。

「お父さんって、
成功しすぎて変な方向いったよね」

笑いながらそう言う。

 

冗談半分だが、
半分は本気だ。

たぶん長女は、
僕が「現実をコントロールしようとしすぎている」
と感じている。

それもわかる。

 

一方、次女は少し違う。

感覚で生きているところがある。

偶然を信じる。

空気を読む。

説明できない流れを、
自然に受け入れる。

 

だから時々、
僕の話を黙って聞いている。

ただ。

その目には少しだけ、
恐れも混ざっている。

 

 

僕自身、
時々わからなくなる。

僕は本当に、
世界の流れを感じているのか。

それとも、
ただの思い込みなのか。

 

最近は、
その境界が以前より曖昧だ。

だが、
一つだけ確かなことがある。

 

娘たちが生まれた時、
僕は本当に嬉しかった。

病院で初めて抱いた時の感覚を、
今でも覚えている。

「存在って、
こんなふうに現れるのか」

と思った。

 

僕は昔から、
人間を「物体」だと思えないところがある。

もっと、
瞬間的に現れているエネルギーみたいに感じる。

だから。

娘たちを見る時、
時々不思議になる。

この二人も、
無数の可能性の中から現れた奇跡なんだな、と。

 

もし少しでも違う人生だったら、
会えていなかった。

それは恐ろしいことでもあり、
美しいことでもある。

 

夜、
長女から短いメッセージが来た。

『ちゃんと寝てね』

それだけだった。

僕はスマホを見ながら、
少し笑った。

 

結局。

一兆円より、
こういう一文のほうが、
人間を救ったりする。

第14話 見えていない世界

最近、街を歩いていると時々思う。

人間は、
自分が認識したものだけを「世界」だと思っている。

でも本当は、
見えていないもののほうが遥かに多いのではないか。

夜の交差点で信号を待ちながら、
そんなことを考える。

 

誰かの後悔。

言われなかった言葉。

選ばれなかった人生。

気づかれなかった愛情。

そういうものも、
どこかには存在している気がする。

 

僕は昔から、
「存在」というものが不思議だった。

例えば、
今ここにあるこの身体。

固定された物体のように見える。

 

だが実際には、
細胞は入れ替わり続け、
意識も変化し続け、
昨日の自分と今日の自分は、
もう完全には同じじゃない。

それでも人間は、
「これが自分だ」
と思い込んでいる。

 

世界も同じなのかもしれない。

固定されているように見えて、
本当は流れ続けている。

最近は、
そういう感覚が以前より強い。

 

特に夜。

高層マンションの窓から街を見ると、
光が現実というより、
巨大な意識の流れみたいに見える時がある。

 

もちろん、
こんな話を長女にしたら呆れられる。

「お父さん、
また宇宙の話してる」

と言われるだろう。

でも、
僕にとってはわりと切実だ。

なぜなら。

世界は、
思っているより柔らかい気がするからだ。

 

ある夜、
窓ガラスに自分の顔が映った。

その瞬間。

一瞬だけ、
ガラスの向こうに中学の校庭が見えた気がした。

もちろん錯覚だ。

疲れていただけかもしれない。

 

だが。

最近の僕は、
そういう「かもしれない」を、
完全には否定できなくなっている。

 

時間も、
存在も、
もっと曖昧なものなのかもしれない。

そしてもしそうなら。

あの頃の彼女も、
今もどこかで笑っている気がする。

第15話 世界線

若い頃、
僕は「もし別の人生を選んでいたら」と考えるのが嫌いだった。

意味がないと思っていた。

選ばなかったものを悔やんでも、
現実は変わらない。

そう思っていた。

 

だが六十五歳になった今、
考え方は少し変わった。

最近は、
選ばなかった人生も、
完全には消えていない気がしている。

僕の中のどこかで、
まだ続いている。

そんな感覚だ。

 

例えば。

東京へ行かなかった人生。

彼女と結婚しなかった人生。

普通の会社員で終わった人生。

逆に、
もっと成功した人生。

色々な可能性が、
薄い膜みたいに重なっている気がする。

 

その感覚が強くなるのは、
決まって夜だ。

特に、
半分眠っているような時間。

意識が少し緩むと、
別の記憶が混ざる。

 

 

ある夜、
僕は夢を見た。

夢の中で僕は、
中学時代の彼女と再会していた。

だがその世界では、
僕らは結婚していない。

ただの同級生だった。

 

彼女は笑っていた。

幸せそうだった。

僕以外の男と。

不思議なことに、
夢の中の僕は嫉妬しなかった。

むしろ少し安心していた。

「ああ、
この世界の彼女は幸せなんだな」

と思っていた。

 

目が覚めた後、
しばらく動けなかった。

人間の幸福というのは、
案外、自分中心ではないのかもしれない。

本当に愛した相手なら、
自分と結ばれることだけが幸福ではない。

そんなことを、
最近は思う。

 

もちろん。

現実の僕は、
彼女と結婚し、
娘たちが生まれ、
離婚し、
こうして今も彼女を思い出している。

それが僕の人生だ。

 

だが。

別の流れも、
どこかには確かに存在している気がする。

人生とは、
一本の道ではなく、
無数の可能性の上を歩くことなのかもしれない。

第16話 成功した孤独

成功すると自由になる。

若い頃の僕は、
そう思っていた。

実際、
ある意味では正しかった。

 

金があれば、
多くの問題は消える。

嫌な相手と無理に付き合わなくていい。

時間も自由になる。

行きたい場所へ行ける。

やりたいこともできる。

貧しさが人間を削ることを、
僕は知っている。

 

だから、
金を否定する気はまったくない。

だが。

自由というのは、
時々、静かすぎる。

 

夜、
高層マンションの窓から街を見ていると、
そのことをよく思う。

大阪の夜景は綺麗だ。

まるで地上に星が散っているみたいだ。

 

若い頃なら、
この景色だけで興奮しただろう。

でも今は、
時々、
静かすぎて怖くなる。

 

冷蔵庫の低い音。

エアコンの風。

遠くのサイレン。

それだけしか聞こえない。

 

 

成功とは、
案外、音の少ない場所へ行くことなのかもしれない。

そんな夜は、
昔の記憶が戻ってくる。

 

体育館前。

彼女の笑い声。

教室のざわめき。

帰り道の自転車。

あの頃の世界には、
もっと雑音があった。

 

汗の匂い。

誰かの笑い声。

くだらない噂。

若さ。

全部が混ざっていた。

だから生きていた。

 

最近、
僕は少しわかる。

人間は、
完璧な静寂の中では幸福になれない。

少し騒がしくて、
少し不完全で、
少し面倒なくらいが、
たぶんちょうどいい。

 

スマホが震えた。

次女からだった。

『今度ご飯行こう』

短い文章。

それだけなのに、
部屋の空気が少し変わった。

不思議なものだ。

 

一兆円あっても、
人間を救うのは、
結局こういう小さな温度だったりする。

 

窓の向こうで、
街の光が揺れていた。

あれも本当に存在しているのか、
時々わからなくなる。

でも。

娘から来たメッセージの嬉しさだけは、
妙に現実だった。

第17話 元妻

久しぶりに元妻と二人で食事をした。

長女が、
「たまには二人で話したら?」
と半分冗談みたいに言い出したのがきっかけだった。

 

駅前の小さな和食屋だった。

昔なら絶対に選ばなかった店だ。

若い頃の僕らは、
もっと派手な場所へ行きたがっていた。

 

夜景の見える店。

流行りのレストラン。

予約の取れない店。

でも六十五歳になると、
静かな店のほうが落ち着く。

 

彼女はメニューを見る時、
少し老眼鏡をずらした。

その仕草に、
妙に時間を感じた。

僕らは確かに老いた。

間違いなく。

 

昔みたいに、
未来が無限に広がっている感じはない。

身体も、
人生も、
どこか終わりを含み始めている。

 

 

それなのに。

彼女が笑うと、
時々、本当に中学時代に戻る。

不思議なくらい。

笑い方だけは、
あの頃のままだ。

 

「なんか変な感じだね」

彼女が言った。

「離婚した夫婦が、
こんな普通にご飯食べるの」

僕は笑った。

「たしかにな」

 

昔なら、
こういう時間はもっと苦かった気がする。

離婚直後は特に。

だが今は、
奇妙なくらい穏やかだった。

 

愛情というのは、
形を変えるのかもしれない。

結婚していた頃より、
今のほうが自然に話せる部分すらある。

 

帰り道、
駅の階段をゆっくり下りながら、
彼女が膝をさすった。

「最近ほんと膝痛いのよ」

そう言って笑った。

 

その瞬間。

中学時代の彼女と、
母親だった頃の彼女と、
今の彼女が、
一瞬重なって見えた。

 

僕はふと思った。

時間って、
本当は同時に存在してるんじゃないか。

人間はただ、
そこを順番に見ているだけで。

 

もしそうなら。

僕は今も、
どこかで彼女に恋をし続けているのかもしれない。

第18話 中学二年生は終わらない

最近、
僕はよく考える。

人間は本当に、
青春を終えられるんだろうか、と。

 

もちろん、
学校は終わる。

制服もなくなる。

恋も変わる。

 

社会人になり、
結婚し、
子供が生まれ、
老いていく。

 

表面上は、
確かに前へ進む。

でも。

心のどこかに、
「最初に世界へ衝撃を受けた年齢」
がずっと残る気がする。

 

僕の場合、
それは中学二年だった。

あの頃、
世界は異様に鮮明だった。

 

空の青。

夏の湿気。

女子の笑い声。

夕焼け。

全部が少し痛いくらい濃かった。

 

 

特に彼女を見ている時は、
世界そのものが発光している感じがした。

今思えば、
恋というより、
存在への驚きだった。

「こんなにも生命って眩しいのか」

という。

 

最近の僕は、
若返っていると言われる。

だが本当は、
身体より先に、
記憶が若返っているのかもしれない。

 

中学時代の感覚が、
年々近づいてくる。

昔はもっと、
過去は遠かった。

三十代の頃なんて、
青春を思い出すことも少なかった。

 

仕事。
金。
家庭。
責任。

そういうもので毎日が埋まっていた。

 

でも六十五歳になると、
時間が逆流してくる。

忘れていた匂い。

光。

感情。

そういうものが、
急に戻ってくる。

 

たぶん人間は、
最後には「最も強く生きていた時間」へ帰っていくんだろう。

 

夜、
ベランダに出ると、
湿った風が吹いていた。

夏が近い。

その匂いだけで、
僕は少し中学二年生に戻る。

 

不思議なものだ。

人間の時間は、
時計だけでは流れていない。

第19話 父親

僕は、
良い父親だったんだろうか。

六十五歳になると、
そういうことを考える時間が増える。

 

もちろん、
娘たちを愛していた。

それは間違いない。

働いた。

家族を養った。

学校行事にも行った。

病院にも連れて行った。

 

でも。

愛情というのは、
「思っていた」
だけでは伝わらない。

 

長女が小さい頃、
熱を出して夜中に泣いたことがある。

元妻が看病している横で、
僕は次の日の仕事を気にしていた。

 

もちろん心配はしていた。

でも、
どこか「現実」を優先していた。

今思えば、
あの時もっと抱きしめればよかった。

もっと「大丈夫だよ」と言えばよかった。

 

 

人間は、
後になってから簡単なことに気づく。

娘たちはもう三十代だ。

自分の人生を生きている。

なのに僕の中では、
時々まだ小さいまま残っている。

 

運動会で転びそうになっていた長女。

アイスを食べながら笑っていた次女。

時間とは残酷だ。

全部過ぎていく。

でも同時に、
全部残ってもいる。

 

最近、
娘たちを見ると時々思う。

この二人は、
僕が「所有」していた存在じゃない。

世界が一瞬、
僕に預けてくれた命だったんだな、と。

そう思うと、
少し泣きそうになる。

 

スマホが鳴った。

次女から写真が送られてきた。

昼ご飯の写真だった。

「これ美味しかった」

それだけ。

 

僕はその写真を見ながら、
しばらく笑っていた。

父親というのは、
案外こういう瞬間だけで救われたりする。

第20話 絶対幸福

若い頃の僕は、
幸福には「完成形」があると思っていた。

金。

成功。

自由。

健康。

愛する女。

全部揃えば、
人間は完全に満たされるのだと思っていた。

 

だから追いかけた。

かなり本気で。

実際、
多くは手に入った。

金も手に入った。

自由も手に入った。

若さまで戻り始めた。

普通の人間なら、
そこで満足するのかもしれない。

 

でも。

人間の心は、
そんな単純じゃない。

一兆円あっても、
孤独な夜はある。

若返っても、
戻れない時間はある。

世界を書き換えられる気がしても、
娘からの短いLINE一つで泣きそうになる。

 

最近は、
「絶対幸福」という言葉に、
あまり興味がなくなった。

そんなもの、
たぶん誰にもわからない。

 

 

そもそも、
幸福は比較した瞬間に少し壊れる。

誰かより上とか、
下とか。

成功したとか、
失敗したとか。

そういう尺度を持ち込んだ瞬間、
幸福は数字になってしまう。

 

でも本当は。

夏の風とか。

彼女の笑い声とか。

娘の「体調大丈夫?」とか。

そういう瞬間に、
人間は勝手に救われている。

それだけなのかもしれない。

 

夜、
窓を開けると、
少し湿った風が入ってきた。

遠くで電車の音がする。

僕はコーヒーを飲みながら、
ぼんやり街を見ていた。

 

世界は今も、
流れ続けている。

固定されたものなんて、
本当は何一つないのかもしれない。

 

だからこそ。

この一瞬、
「ああ、幸せだな」
と思えることが、
案外いちばん大事なんだろう。

第21話 存在

最近、自分の手を見つめる時間が増えた。

別に病んでいるわけではない。

ただ不思議なのだ。

この手は本当に「物」なのだろうか、と。

 

若い頃はそんなこと考えなかった。

手は手だった。

身体は身体だった。

世界は世界だった。

だが六十五年も生きていると、
少し事情が変わってくる。

 

まず、
昔の自分がどこにもいない。

細胞は入れ替わった。

考え方も変わった。

価値観も変わった。

顔つきも変わった。

それなのに、
僕は今も「同じ自分」だと思っている。

それが不思議だった。

 

 

ある朝、
コーヒーを飲みながら窓の外を見ていた。

街はいつも通り動いていた。

 

電車が走る。

人が歩く。

車が曲がる。

誰もが、
目の前の世界を現実だと思っている。

もちろん僕もそうだ。

 

だが同時に思う。

この世界は、
想像以上に柔らかいのではないか。

人間が認識しているから、
この形になっているだけではないのか。

僕自身もまた、
エネルギーの流れが、
一時的に「僕」という形を取っているだけなのかもしれない。

 

もしそうなら。

死もまた、
それほど恐ろしいものではない。

形が変わるだけだ。

 

僕は昔から、
死そのものより、
伝えられなかったことのほうが怖かった。

娘たちへの愛情。

彼女への感謝。

そういうもののほうが、
ずっと大事だった。

 

存在とは何だろう。

最近は、
答えを探すより、
問いを味わうようになった。

第22話 時間

時間というものを、
僕は昔からあまり信用していない。

 

もちろん時計は正しい。

予定もある。

待ち合わせもある。

社会は時間で動いている。

だが。

人間の心の中では、
時間はもっと自由だ。

 

昨日のことを忘れる日もあれば、
五十年前の昼休みが急に蘇る日もある。

その差は何なのだろう。

 

ある日、
スーパーで買い物をしていた。

ただ野菜を選んでいただけだ。

すると突然、
体育館の匂いがした。

もちろん実際にはしない。

 

 

だが記憶は確かにそこにあった。

ワックス。

汗。

昼休みのざわめき。

そして彼女の笑い声。

ほんの一瞬で、
僕は中学二年生になった。

 

スーパーにいる六十五歳の男と、
体育館前にいる十四歳の少年が、
同時に存在していた。

そんな感覚だった。

 

人間は時間を直線だと思っている。

過去から現在、
現在から未来へ。

でも本当は違うのかもしれない。

全部同時に存在していて、
意識がその上を移動しているだけ。

そんな気がする時がある。

 

だから僕は、
青春を懐かしいと思うことはあっても、
失ったとは思えない。

あれは終わっていない。

ただ、
今は別の場所に意識があるだけだ。

 

夜、
ベランダに立つ。

風が吹く。

その風の中に、
昔の夏が混じる。

そんなことが時々ある。

時間というのは、
思っているより優しいのかもしれない。

第23話 叶わなかったもの

願いはたくさん叶った。

若い頃の僕が見たら、
信じないくらいに。

 

金。

自由。

健康。

若さ。

人脈。

成功。

 

その多くは、
現実になった。

だからこそ思う。

人生は、
叶わなかったもので出来ている部分も大きい。

 

 

僕には今でも、
叶わなかった願いがある。

元妻を完全に理解したかった。

それは最後まで叶わなかった。

結婚していた頃も。

離婚した後も。

たぶん今も。

 

彼女は彼女だった。

僕とは別の宇宙だった。

それが少し寂しくて、
少し美しい。

 

娘たちにも同じことを思う。

もっと上手に愛情を伝えたかった。

もっと抱きしめればよかった。

もっと一緒に笑えばよかった。

そういう小さな後悔は、
今でも残っている。

 

だが最近は、
それを消したいと思わなくなった。

後悔というのは、
愛情の裏側なのかもしれない。

本当にどうでもいいことなら、
人は後悔しない。

 

だから僕は、
叶わなかったものを見つめる。

そこには、
人生の輪郭がある。

全部叶っていたら、
逆に何も残らなかったかもしれない。

第24話 それでも幸せだった

最近、
昔のアルバムを見ることがある。

写真というのは不思議だ。

撮った瞬間には、
特別だと思っていなかったものが、
何十年後には宝物になる。

 

運動会。

家族旅行。

娘たちの誕生日。

何でもない食卓。

 

その時は、
当たり前だった。

永遠に続くと思っていた。

でも続かなかった。

 

人は老いる。

家族は変化する。

結婚も終わることがある。

人生は、
思ったより速い。

 

 

アルバムを見ながら、
僕は昔の自分に少し驚く。

もっと幸せそうなのだ。

当時の僕は、
足りないものばかり見ていた。

 

もっと金が欲しい。

もっと自由が欲しい。

もっと成功したい。

そう思っていた。

だが写真の中の僕は、
十分に幸せそうだった。

 

結局、
幸福というのは後から気づくものなのかもしれない。

人生の真ん中にいる時、
人はそれを見つけられない。

通り過ぎてから、
ようやく気づく。

「あれは幸せだったんだな」と。

 

そして今もまた、
きっと同じなのだろう。

今この瞬間も、
未来の僕から見れば、
かけがえのない時間なのかもしれない。

そう思うと、
少しだけ世界が優しく見える。

第25話 朝

最近は朝が好きだ。

若い頃は夜だった。

夜には可能性があった。

夢もあった。

野心もあった。

だが六十五歳になると、
朝のほうが美しい。

 

窓を開ける。

光が入る。

コーヒーを淹れる。

それだけで少し満たされる。

若い頃の僕なら、
退屈だと思っただろう。

しかし今は違う。

 

人間は、
何かを足すことで幸福になるとは限らない。

むしろ。

余計なものが減ることで、
見えるものがある。

 

朝の光。

湯気。

鳥の声。

遠くの電車。

そういうものが、
以前より深く感じられる。

 

 

もしかすると、
これが年を取るということなのかもしれない。

失うことばかりではない。

見えるようになるものもある。

コーヒーカップを持ちながら、
ふと窓ガラスに映る自分を見る。

相変わらず若く見える。

 

だがそれは、
もうそれほど重要ではなかった。

若返りも。

成功も。

資産も。

全部ありがたい。

だが。

朝の光の中で感じる静かな幸福には、
どれも勝てない気がする。

 

僕は窓の外を見た。

世界は今日も存在している。

いや。

存在しているように見えている。

どちらでもいい。

 

大切なのは。

今、
僕がこの世界を美しいと思えていることだ。

それだけで、
十分幸せだった。

第26話 別の人生の夢

昨夜も夢を見た。

最近よく見る種類の夢だった。

夢の中で僕は、
今の僕ではなかった。

 

地方の小さな町に住んでいた。

資産もなかった。

高層マンションもなかった。

宝くじも当たっていなかった。

若返ってもいなかった。

普通の老人だった。

 

古い団地の五階。

少し曲がった背中。

膝も悪い。

だが。

その夢の中の僕は、
なぜか穏やかだった。

 

 

夕方になると、
近くの公園を散歩していた。

犬を連れた夫婦。

遊ぶ子供たち。

ベンチに座る老人。

どこにでもある風景だった。

 

夢の中の僕は、
それを静かに眺めていた。

そしてふと思った。

「悪くない人生だったな」

と。

 

目が覚めた時、
少し不思議な気持ちになった。

僕は今、
現実では大成功している。

だが。

幸福というものは、
成功と必ずしも比例しないのかもしれない。

 

その夢の老人は、
確かに幸せそうだった。

人生には、
無数の可能性がある。

そしてそのどれもが、
それなりに美しいのかもしれない。

 

そう思うと、
選ばなかった人生に対する執着が、
少しだけ薄くなった。

第27話 娘からのLINE

昼過ぎだった。

特に予定もなく、
本を読んでいた。

スマホが震えた。

次女からだった。

 

『今日、虹見た?』

それだけだった。

写真が一枚添付されていた。

空に大きな虹がかかっていた。

僕は思わず笑った。

 

子供の頃から、
次女はこういうところがある。

虹を見ると送ってくる。

変わった雲を見ると送ってくる。

面白い猫を見ると送ってくる。

まるで世界の美しさを、
誰かと共有したいみたいに。

 

 

僕は返信した。

『見てない。でも見た気分になった』

すぐに返事が来た。

『でしょ』

たったそれだけだった。

だが。

なぜだろう。

胸の奥が少し温かくなった。

 

若い頃の僕は、
幸福というものを大げさに考えていた。

大金。

成功。

自由。

特別な何か。

だが最近は違う。

娘から送られてくる虹の写真。

それだけで、
一日が少し明るくなる。

 

幸福というのは、
案外そういうものなのかもしれない。

世界の美しさを、
誰かと共有できること。

それだけで十分な日もある。

第28話 彼女の笑い声

人間の記憶は不思議だ。

顔を忘れることはある。

会話も忘れる。

日付なんてほとんど残らない。

それなのに。

笑い声だけは残る。

 

元妻の笑い声を、
僕は今でも覚えている。

高い声だった。

少し大きかった。

そして遠慮がなかった。

本気で面白い時は、
身体ごと笑った。

 

あの笑い声を初めて聞いたのは、
中学二年の昼休みだったと思う。

体育館前。

女子たちが集まっていた。

僕は少し離れた場所にいた。

その時の会話は、
もうほとんど覚えていない。

だが。

彼女の笑い声だけは、
今も耳の奥に残っている。

 

 

時々思う。

僕は彼女という人間を、
本当に愛していたのだろうか。

それとも。

彼女を通して見えた世界を、
愛していたのだろうか。

 

たぶん両方だ。

彼女がいたから、
世界は色づいた。

彼女が笑ったから、
昼休みが輝いた。

彼女がいたから、
僕は世界に興味を持った。

 

そう考えると、
感謝という言葉が一番近いのかもしれない。

愛情は形を変える。

結婚も終わる。

一緒に暮らさなくなる。

だが。

感謝だけは、
時間が経つほど静かに残る。

 

夜。

窓の外を見る。

街の光が揺れている。

その向こうから、
あの笑い声が聞こえた気がした。

もちろん錯覚だ。

だが僕は、
その錯覚を少しだけ愛している。

第29話 認識

最近、ますます思う。

人間は世界を見ているのではない。

認識している。

その認識を、
世界だと思っている。

 

若い頃は、
もっと単純だった。

目の前にあるものが現実だった。

学校があり。

友達がいて。

彼女がいて。

未来があった。

 

だが六十五年も生きていると、
そんなに単純ではなくなる。

同じ出来事でも、
見る時期によって意味が変わる。

同じ言葉でも、
受け取り方が変わる。

同じ人生ですら、
何度も違うものになる。

 

僕は中学二年の頃、
彼女を見て衝撃を受けた。

その時は恋だと思った。

二十代では運命だと思った。

四十代では家族だと思った。

離婚した頃には後悔だと思った。

 

 

だが今は違う。

あれはたぶん、
世界そのものへの驚きだった。

彼女は入口だった。

僕は彼女を通して、
世界の美しさを見た。

生命の輝きを見た。

可能性を見た。

だから忘れられなかった。

 

最近、
鏡を見るたびに思う。

若返りも、
成功も、
宝くじも。

全部、
認識の延長だったのかもしれない。

 

世界をどう見るか。

自分をどう見るか。

未来をどう見るか。

その積み重ねが、
人生を作っていた。

 

もちろん、
証明はできない。

するつもりもない。

人間は最後まで、
わからないまま生きる。

だが。

わからないからこそ、
面白い。

そう思えるようになった。

 

窓の外で、
夕陽が街を染めていた。

その光景を見ながら、
僕はふと笑った。

中学二年の僕も、
きっと同じ空を見ていたのだろう。

そう考えると、
少し嬉しかった。

第30話 生きている

今朝は少し早く目が覚めた。

まだ太陽は低い。

街も静かだった。

コーヒーを淹れる。

湯気が立つ。

窓を開ける。

風が入る。

それだけの朝だった。

 

若い頃の僕なら、
退屈だと思っただろう。

刺激が欲しかった。

成功したかった。

大きなことを成し遂げたかった。

世界を変えたかった。

そして実際、
かなり多くのことを実現した。

だが。

 

六十五歳になった今、
思う。

本当に欲しかったものは、
案外ずっと目の前にあったのかもしれない。

 

朝の光。

誰かの笑い声。

娘からのLINE。

夏の湿気。

帰り道の夕焼け。

彼女の存在。

そんなものだったのかもしれない。

 

 

僕は今でも、
世界は固定された物ではないと思っている。

人も。

時間も。

現実も。

すべて流れている。

すべて変化している。

そして僕自身も。

 

一時的に、
「僕」という形を取っているだけなのだろう。

だから最近は、
あまり恐れなくなった。

 

老いも。

別れも。

死も。

もちろん寂しさはある。

だが。

それもまた、
生きている証拠だと思う。

 

ふと、
中学二年の昼休みを思い出した。

体育館前。

女子たちの笑い声。

彼女の笑顔。

あの日。

僕はたぶん、
初めて世界に恋をした。

その恋は、
今も終わっていない。

 

窓の外を見る。

街がある。

空がある。

光がある。

本当に存在しているのかどうかは、
正直わからない。

だが。

今、
美しいと思える。

それで十分だった。

 

僕はコーヒーを飲む。

世界は今日も続いている。

そして僕もまた、
その中にいる。

ただそれだけのことが、
どうしようもなく幸せだった。

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