世界は思考でできている

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第一話 世界は思考でできている

 神谷隆司は、六十五歳だった。

 ただし、鏡の中の男は六十五には見えない。せいぜい五十代前半。肌には妙な艶があり、背筋は伸び、腹も出ていない。目だけが、年齢を隠せなかった。若い肉体の奥に、六十五年分の記憶が沈んでいた。

 東京の夜景が、窓の外で無数の光になって揺れている。

 地上五十二階。リビングだけで、昔住んでいた団地の一室が三つは入る。壁には海外の画家の絵がかかり、テーブルの上には、一本数十万円のワインが置かれている。だが隆司は酒を飲まない。若返りを始めてから、身体が余計なものを受けつけなくなった。

 資産は、一兆円を超えていた。

 数字にすると滑稽だった。一兆。若い頃の自分に言っても、きっと信じなかっただろう。いや、若い頃の自分なら、たぶん信じた。隆司は昔から、根拠のない確信だけはあった。

 思考は現実になる。

 最初にその言葉を知った時、隆司は笑った。そんな都合のいい話があるか、と。しかし同時に、胸の奥で何かが鳴った。それは真新しい思想に出会ったというより、昔から知っていたことを誰かに言葉にされたような感覚だった。

 それから隆司は、願った。

 金が欲しい。健康が欲しい。自由が欲しい。誰にも命令されない人生が欲しい。時間が欲しい。若さが欲しい。

 そして、ほとんどが手に入った。

 投資は不気味なほど当たり、事業は拡大し、宝くじでは十二億円を的中させた。偶然と言えば偶然だった。だが偶然が何度も続けば、人はそれを偶然とは呼ばなくなる。

 医者は、隆司の検査結果を見て首をひねった。

「神谷さん、本当に六十五歳ですか」

 そう言われた時、隆司は笑わなかった。笑えば、かえって嘘くさくなる気がした。

 彼は知っていた。

 肉体もまた、固定された物質ではない。エネルギーが、ある瞬間に形を取っているだけだ。老いも、病も、現実も、誰かが強く信じ続けた像にすぎない。

 世界は、固くない。

 人生も、一本ではない。

 そのことに気づいた人間から、現実は少しずつ輪郭を失っていく。

 

 

 テーブルの上で、スマートフォンが震えた。

 長女の香織からだった。

『体調、大丈夫?』

 たったそれだけの文面だった。

 隆司はしばらく画面を見つめた。返信欄に指を置き、「大丈夫」と打った。だが送信する前に消した。次に「ありがとう」と打った。それも消した。

 結局、彼はこう返した。

『大丈夫。ありがとう』

 送信したあと、妙に疲れた。

 娘に対してさえ、言葉を選びすぎる。昔からそうだった。愛していないわけではない。むしろ逆だった。愛しているからこそ、どう表現していいか分からなかった。

 金は増やせた。

 肉体は若返らせた。

 欲しい現実は、いくらでも引き寄せられた。

 だが、娘との距離だけは、思い通りにならなかった。

 隆司は窓際に立った。夜景の光が、ガラスに自分の顔を重ねて映す。若返った自分と、老いた記憶が重なる。

 ふと、体育館の匂いがした。

 ありえないことだった。ここは高層マンションの最上階に近い部屋で、床は磨かれた石材、空調は一定、外気の匂いなど入ってこない。

 それでも、確かにした。

 古い木の床。ワックス。汗。昼休みのざわめき。校舎の影。春でも夏でもない、あの頃特有の、生ぬるい空気。

 中学二年。

 隆司は、佐伯美和に出会った。

 いや、出会ったというより、撃たれたのだと思う。

 初めて彼女を見た時、世界の彩度が変わった。大げさではない。あの日を境に、隆司の世界には「女」というまったく別の宇宙が開いた。

 男と女は、同じ人間でありながら、どこか決定的に違う。

 若い頃は、その違いにただ振り回された。結婚して、子供を作り、同じ家で暮らし、同じ食卓につき、それでも分かった気になっただけだった。美和のことを理解したと思った瞬間ほど、実際には何も見えていなかったのかもしれない。

 あの昼休み、美和は友人たちと体育館前で笑っていた。

 何を話していたのか、正確には覚えていない。ただ、彼女たちは自分たちの成長を面白がって、はしゃいでいた。子供の無邪気さと、女になっていく身体のまぶしさが、危ういほど自然に混ざっていた。

 美和は胸を張り、得意げに笑っていた。

 その姿を見た瞬間、隆司は足を止めた。

 可愛い、という言葉では足りなかった。

 綺麗、でも足りなかった。

 生命そのものが、形を取って立っているように見えた。

 彼女は自分の眩しさを知らなかった。だからこそ、眩しかった。計算も媚びもなく、ただそこに存在していた。その存在が、隆司の内部で何かを破壊した。

 

 

 あの時からだ。

 隆司は、本当の意味で「欲しい」と思うことを知った。

 金ではない。

 地位でもない。

 勝利でもない。

 あの光の中に入りたかった。美和が笑っている世界に、自分も存在したかった。

 それから五十年以上が過ぎた。

 美和とは結婚し、二人の娘を授かり、そして離婚した。

 思えば、彼はあまりにも多くを手に入れた。だが、最初に欲しいと思ったものだけは、最後まで掴みきれなかったのかもしれない。

 スマートフォンが再び震えた。

 今度は次女の真奈だった。

『お父さん、また若返ってない? この前の写真、ちょっと怖いよ』

 隆司は小さく笑った。

 怖い。

 そうだろうな、と思った。

 人は、自分の信じている現実から外れたものを見ると、奇跡とは呼ばずに恐怖と呼ぶ。

 隆司は返信しなかった。

 かわりに、窓に映る自分の目を見た。

「世界は思考でできている」

 声に出すと、その言葉は広い部屋の中で頼りなく響いた。

 だが、もし本当にそうなら。

 なぜ自分は、いまだに中学二年の昼休みに囚われているのか。

 なぜ一兆円を得ても、十二億円を当てても、若返っても、たった一人の女の笑い声から逃れられないのか。

 夜景が揺れた。

 一瞬、ガラスの向こうに、セーラー服の少女が映った気がした。

 隆司は息を止めた。

 もちろん、そこには誰もいない。

 ただ、東京の夜があるだけだった。

 しかし彼には分かっていた。

 存在しているものだけが、現実ではない。

 認識されなかったもの。

 選ばれなかった人生。

 言えなかった言葉。

 抱きしめなかった時間。

 それらもまた、どこかで形を持っている。

 隆司は目を閉じた。

 暗闇の中で、美和の笑い声がした。

 あの昼休みは、まだ終わっていなかった。

第二話 中学二年の衝撃

昭和五十一年の春だった。

四月の空気はまだ少し冷たく、朝の校庭には湿った土の匂いが残っていた。

神谷隆司は、その頃、どこにでもいる中学二年生だった。

背は平均より少し高い程度。勉強もそこそこ。運動もそこそこ。女子と話すのは苦手で、クラスの中心人物になるタイプでもない。

ただ、ぼんやりと、

「自分はいつか何者かになる」

という根拠のない感覚だけは持っていた。

それが何なのかは分からなかった。

社長かもしれない。
作家かもしれない。
世界を変える何かかもしれない。

だが現実の彼は、朝のホームルーム前に友人と漫画の話をし、昼休みには購買のパンを奪い合う、ごく普通の少年だった。

その日もそうだった。

四時間目の数学が終わり、昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室は一気に騒がしくなった。

「神谷、焼きそばパン行くぞ!」

友人の西田が叫び、隆司は立ち上がった。

廊下には、同じように購買へ向かう男子たちが流れ込んでいた。窓から差し込む春の日差しが、埃を白く浮かび上がらせている。

その時だった。

 

 

ふと、体育館のほうから女子たちの笑い声が聞こえた。

甲高く、無防備で、妙に耳に残る笑い声だった。

隆司は何気なくそちらを見た。

そして、足が止まった。

体育館前のコンクリートの小さなスペースに、数人の女子が集まっていた。

セーラー服。

白いソックス。

春風。

その中心に、佐伯美和がいた。

当時の隆司は、まだ「美人」という概念をちゃんと理解していなかった。

テレビのアイドルを見て可愛いと思うことはあった。しかし、それは遠い世界の話だった。

現実の同級生が、
ここまで眩しく見えるとは知らなかった。

美和は笑っていた。

心の底から楽しそうに。

周囲の女子たちも大笑いしている。

「絶対、私のほうが大きいって!」

美和がそう言って胸を張ると、友人の一人が、

「うそだぁ!」

と叫んだ。

次の瞬間、美和は得意げな顔をして、さらに胸を突き出した。

その拍子に、セーラー服の胸元のホックが危うく外れそうになり、女子たちは悲鳴のような笑い声を上げた。

「やばっ! 外れる外れる!」

「ほら見て! やっぱ私の勝ち!」

「意味わかんないって!」

馬鹿みたいな会話だった。

本当に、ただそれだけのことだった。

だが、その光景は、隆司の脳に焼き付いた。

今でも忘れられない。

六十五歳になった今でも。

なぜなのか、自分でも分からない。

胸が大きかったからではない。

いや、もちろん中学生男子としての衝撃はあった。だが、それだけでは説明がつかなかった。

あの時、隆司が本当に見たものは、

「生命力」

だった。

女という存在が持つ、
圧倒的なエネルギー。

身体が成熟し始め、
本人たちもまだその意味を完全には理解していない、
危うくて、無邪気で、残酷な輝き。

それを初めて目撃したのだ。

世界が揺れた。

少なくとも、隆司にはそう感じられた。

それまで平面的だった現実に、突然、奥行きが生まれた。

女という宇宙。

理解不能な存在。

なのに、どうしようもなく惹かれる存在。

美和は、そんなことを一切自覚していない顔で笑っていた。

そこが恐ろしかった。

もし彼女が男を誘惑しようとしていたなら、まだ理解できた。しかし違った。彼女はただ、楽しくて笑っているだけだった。

なのに、その無意識さが、
男子の世界を破壊するほど強かった。

「神谷?」

横で西田が怪訝そうな顔をした。

「お前、何見てんの?」

「……いや」

隆司は慌てて視線を逸らした。

だが、心臓の鼓動が妙に速かった。

自分が今、
何か取り返しのつかないものを見てしまった気がした。

西田は女子たちのほうを見て、ニヤニヤ笑った。

「あー、佐伯たち、また馬鹿やってんな」

その程度の反応だった。

他の男子も似たようなものだった。

もちろん「エロい」と騒ぐ奴はいた。だが、隆司の感じた衝撃とは違った。

彼だけが、
別のものを見てしまった。

その日の午後、授業内容はほとんど頭に入らなかった。

ノートを取るふりをしながら、
何度も美和の横顔を見た。

窓際の席。

春の光。

頬杖。

シャーペンを回す指。

笑う時に少し細くなる目。

すべてが妙に現実感を持っていた。

逆に、それ以外のものは夢みたいだった。

 

 

先生の声。
黒板。
教室。
未来。

全部ぼやけていた。

放課後、隆司は校門を出たあと、一人で遠回りして帰った。

川沿いの道を歩きながら、
彼はずっと考えていた。

なぜ、自分はあれほど衝撃を受けたのか。

だが答えは出なかった。

今なら少し分かる。

あの日、
隆司は初めて、

「欲望」

を知ったのだ。

ただしそれは、
単純な性欲ではない。

もっと根源的なものだった。

生きたい。

触れたい。

理解したい。

あの笑い声の世界に入りたい。

そんな衝動。

そして同時に、
決定的に理解できないという恐怖。

男と女は、
同じ人間ではある。

だが、まったく別の生き物でもある。

その事実を、
中学二年の神谷隆司は、
まだ言葉にならないまま感じ取ってしまった。

夕方の風が吹いた。

川面がオレンジ色に揺れる。

その時、ふと、
奇妙な感覚が彼を襲った。

今、この瞬間も、
別のどこかに別の人生が存在している。

そんな感覚。

例えば。

今日、美和を見なかった人生。

彼女に話しかける人生。

まったく別の女を好きになる人生。

何も感じずに大人になる人生。

無数の可能性。

だが、
どの人生を選んだとしても、
たぶん自分は、
この日を忘れられない。

そんな確信だけがあった。

空を見上げると、
春の雲がゆっくり流れていた。

世界はまだ、
硬い物質の塊ではなく、
柔らかく揺れる何かに見えた。

神谷隆司の人生は、
あの昼休みから、
静かに狂い始めていた。

第三話 願望ノート

神谷隆司は、昔からノートを書く癖があった。

きっかけは中学三年の冬だった。

受験を控えた教室の空気は妙に重く、誰もが「将来」という見えない怪物に怯えていた。成績。進学。就職。人生。大人たちは、未来には現実的な選択しかないような顔をして話した。

だが隆司は、その頃から違和感を持っていた。

本当にそうなのか。

人間の人生は、
そんなに最初から決まっているものなのか。

世界はもっと柔らかいのではないか。

ある夜、彼は大学ノートの最初のページにこう書いた。

『俺は金持ちになる』

次の行には、

『自由になる』

さらに、

『美和と一緒に生きる』

と書いた。

その文字を見た瞬間、妙な感覚があった。

ただの願望を書いたというより、
未来を先に記録したような感覚。

もちろん、当時の隆司には説明できなかった。

だが彼は、その日から時々ノートを書くようになった。

願望。
理想。
未来。
欲しいもの。

まるで未来の設計図を書き換えるみたいに。

六十五歳になった現在、そのノートは高層マンションの書斎に保管されていた。

革張りの椅子。

間接照明。

窓の向こうには東京湾。

だが隆司の視線は、
古びた大学ノートに向いていた。

紙は黄ばんでいる。

角は擦り切れ、
ところどころに若い頃の筆圧の強さが残っている。

 

 

彼はゆっくりページをめくった。

『年収一千万』

達成。

『社長になる』

達成。

『海外に住む』

達成。

『時間に縛られない』

達成。

『宝くじを当てる』

達成。

隆司は小さく笑った。

自分でも気味が悪いと思う。

偶然では説明できないほど、
実現していた。

若い頃、彼は成功哲学や精神世界の本を読み漁った。

ナポレオン・ヒル。
ジョセフ・マーフィー。
引き寄せ。
潜在意識。

世間は胡散臭いと言った。

だが隆司には、
どれも「当たり前の話」に思えた。

人間は、
自分が強く信じた現実を生きる。

逆に言えば、
無意識に自分を否定している人間は、
否定された現実を引き寄せる。

それだけのことだ。

テレビ。
広告。
世間。

世の中は、
「お前は足りない」
という声で溢れている。

もっと金を使え。
もっと痩せろ。
もっと成功しろ。
もっと認められろ。

不満を植え付けられ続けた人間は、
不足の人生を生きる。

だから隆司は、
若い頃から意識的に頭の中の声を変えた。

「俺はできる」

「俺は豊かだ」

「俺は自由だ」

「俺は価値がある」

最初は嘘っぽかった。

だが、人間の脳は繰り返された言葉を現実だと認識し始める。

そして現実が変わる。

本当に変わってしまう。

隆司はページをめくった。

そこには二十代の頃の文字があった。

『俺は老けない』

彼はしばらくその文字を見つめた。

普通なら笑う。

馬鹿みたいな願望だ。

だが現実には、
彼の肉体は異様な変化を起こしていた。

五十代後半から、
老化が止まり始めた。

白髪が減った。

肌が変わった。

疲労感が消えた。

医師たちは、
食生活や運動の影響だと言った。

だが隆司には分かっていた。

違う。

もっと根本的なところで、
自分は身体を書き換えている。

老いとは、
集合意識だ。

人間は、
「老いるものだ」
という巨大な思い込みに従っている。

だから老いる。

逆に言えば、
その認識から外れれば、
肉体も変わる。

少なくとも、
隆司はそう信じていた。

 

 

ページをさらにめくる。

すると、
一つだけ、
妙に筆圧の強い言葉があった。

『家族を幸せにする』

隆司の指が止まった。

静かな部屋。

遠くで車の音がする。

彼はゆっくり息を吐いた。

金は得た。

成功した。

若返った。

だが。

本当に、
家族を幸せにできたのか。

美和は離婚した。

香織とは距離がある。

真奈も、
どこか遠慮している。

何が足りなかったのか。

隆司は時々、
分からなくなる。

成功とは何なのか。

思考で現実を変えられるなら、
なぜ愛だけは、
こんなにも不完全なのか。

その時だった。

突然、
ノートのページが勝手にめくれた。

エアコンの風かと思った。

だが違った。

窓は閉まっている。

部屋の空気は動いていない。

それでもページは、
ゆっくりと進み、
ある箇所で止まった。

隆司の目が細くなる。

そこには、
高校時代の文字があった。

『俺は美和を失う』

隆司の背中に、
冷たいものが走った。

第四話 振動

世界は振動でできている。

神谷隆司が最初にその考えに触れたのは、三十代の終わり頃だった。

当時の彼は、まだ今ほどの成功者ではなかった。

会社経営は軌道に乗り始めていたが、不安定だった。社員の給料。銀行。取引先。家庭。二人の娘。責任が増えるほど、心は逆に擦り減っていった。

夜中に目が覚めることも増えた。

自宅マンションのベランダで煙草を吸いながら、

「このまま失敗するかもしれない」

と考える夜もあった。

すると不思議なことに、
本当に悪いことが起きる。

取引が飛ぶ。
人が辞める。
金が消える。

逆に、
妙に気分が軽い時には、
信じられないほど物事がうまく進む。

偶然だと思っていた。

だが、
偶然にしては出来すぎていた。

ある日、
古本屋で一冊の洋書と出会った。

タイトルは忘れた。

だが内容だけは覚えている。

『思考には固有の振動がある』

という一文。

その瞬間、
隆司の中で何かが繋がった。

ああ、そういうことか。

世界は固定された物質ではない。

もっと曖昧で、
柔らかく、
影響し合っている。

人間の思考もまた、
一種の波なのだ。

怒りには怒りの波長。

恐怖には恐怖の波長。

愛には愛の波長。

不足には不足の波長。

そして、
人は自分が最も強く発している波に近い現実を受け取る。

 

 

隆司はその頃から、
徹底的に自分の思考を観察し始めた。

すると気づいた。

人間の頭の中では、
一日中、
妙なBGMが流れている。

「俺には無理だ」

「失敗する」

「嫌われる」

「足りない」

「もっと頑張らないと価値がない」

世界中の人間が、
そんな自己否定を再生し続けている。

しかも本人は気づいていない。

それは広告にも似ていた。

世の中は、
常に不足感を植え付けてくる。

お前はまだ足りない。

もっと買え。

もっと競え。

もっと焦れ。

そうやって、
人間の波動を不足側へ固定していく。

だから隆司は、
意識的に外部情報を減らした。

テレビを捨てた。

ニュースを見なくなった。

他人の不安を遮断した。

すると、
現実が変わり始めた。

本当に。

信じられないほど。

必要な人間と偶然出会う。

金が流れ込む。

タイミングが噛み合う。

宝くじまで当たった。

最初は怖かった。

自分の思考が、
現実を歪めている気がした。

だが次第に、
それは確信へ変わった。

世界は、
人間が思っているほど固定されていない。

その夜、
隆司はリビングで一人、
ワインも飲まずに夜景を見ていた。

六十五歳。

資産一兆円。

若返った肉体。

普通なら、
幸福の完成形に見える。

しかし彼は、
時々、
現実感を失う。

本当に自分は、
この世界に存在しているのか。

窓ガラスに映る自分の顔が、
時々、
別人に見える。

いや、
別世界線の自分に。

ある瞬間には、
二十代の自分が重なる。

またある瞬間には、
老人の自分が見える。

肉体が固定されていない。

そんな感覚。

隆司は知っていた。

人間は、
「物体」ではない。

エネルギーが、
一瞬だけ形を持っている現象にすぎない。

椅子も。

床も。

夜景も。

娘たちも。

そして、
自分自身も。

だから、
認識が変われば、
現実も変わる。

だが。

その思想を深めれば深めるほど、
一つだけ説明できないものがあった。

 

 

美和だった。

なぜ、
あの女だけは、
五十年以上経っても、
隆司の内部で圧倒的な実在感を持ち続けるのか。

他の記憶は薄れる。

成功も、
失敗も、
金も、
時間も。

なのに。

中学二年の昼休みだけは、
今も妙に鮮明だった。

体育館前。

春の空気。

笑い声。

セーラー服。

胸を張って笑う少女。

あの瞬間だけが、
夢ではなく「本物」に感じる。

隆司は時々、
考える。

もしかすると、
人生とは、
たった一つの強烈な感情を中心に、
後から組み立てられていくものなのではないか。

だとしたら。

自分の人生は、
あの日の衝撃から、
すべて始まっている。

その時、
スマートフォンが震えた。

画面には、
美和の名前が表示されていた。

離婚して十年以上。

ほとんど連絡など来ない。

隆司は、
しばらく画面を見つめた。

胸の奥で、
何かが揺れていた。

まるで、
遠い過去の振動が、
今になって再び届いたみたいに。

第五話 女という宇宙

神谷隆司は、若い頃からずっと不思議だった。

なぜ男は、
あれほどまでに女に支配されるのか。

理性では説明がつかない。

歴史を見てもそうだった。

英雄。
王。
革命家。
天才。

どれほど巨大な男でも、
女の存在によって狂い、
破滅し、
あるいは生かされてきた。

若い頃の隆司は、
それを単純な性欲だと思っていた。

しかし年齢を重ねるにつれ、
そんな簡単なものではないと分かってきた。

もっと根源的だ。

生命そのものが、
男を女へ向かわせている。

それは恋愛感情ですらないのかもしれない。

もっと古く、
もっと深い、
種としての衝動。

六十五歳になった今でも、
隆司は時々、
女という存在に圧倒される。

特に美和だった。

彼女は特別な美女だったわけではない。

芸能人みたいな派手さはない。

だが、
彼女には「生きている女」の匂いがあった。

それが隆司を狂わせた。

夜のリビング。

高層マンションの窓から見える東京の光。

隆司はソファに深く座り、
スマートフォンを見つめていた。

画面には、
美和から届いた短いメッセージ。

『久しぶり。元気?』

たったそれだけ。

それだけなのに、
胸の奥が静かに揺れる。

離婚して十年以上。

今さら何を話すことがあるのか。

だが同時に、
五十年以上前の中学二年生の自分が、
まだ彼女を見つめ続けている感覚があった。

 

 

時間は、
本当に流れているのだろうか。

隆司は時々、
そう思う。

過去は消えていない。

ただ、
別の場所に存在しているだけだ。

中学時代の美和も、
高校時代の美和も、
母親になった美和も、
離婚届に判を押した美和も、
全部、
同時に存在している。

そして自分は、
その全てを同時に愛してしまっている。

隆司は返信を打ち始めた。

『元気だよ』

消した。

『久しぶりだな』

消した。

『会うか?』

そこまで打って、
指が止まった。

会ってどうする。

もう若くない。

いや、
身体は若い。

そこが余計に気持ち悪かった。

娘たちより若く見える父親。

鏡を見るたび、
現実感が薄れる。

だが、
どれだけ若返っても、
心の奥には老いた孤独が沈んでいる。

隆司はスマートフォンを置き、
窓の外を見た。

世界は光でできていた。

ビル。

車。

信号。

人間。

すべてが振動している。

固定された物質など存在しない。

女も同じだ。

美和という存在も、
「肉体」ではない。

もっと巨大な何か。

生命の中心みたいなもの。

 

 

隆司は昔から、
セックスという行為についても、
妙な感覚を持っていた。

男は、
一瞬の放出で終わる。

だが女は違う。

もっと深く、
もっと長く、
身体全体で快感を受け止めている。

だからこそ、
女は男には理解できない。

理性で会話していても、
身体の奥では、
まったく別の生き物として存在している。

そして男は、
その未知性に惹かれてしまう。

理解不能だからこそ、
支配される。

隆司は二十代の頃、
美和と抱き合った夜を思い出した。

狭いアパート。

安い布団。

夏の汗。

美和は笑いながら、
「暑いね」
と言った。

その笑い声だけで、
世界が完成している気がした。

金も成功も、
何もいらなかった。

なのに人間は、
その幸福の最中で、
別のものを欲し始める。

もっと金を。

もっと自由を。

もっと成功を。

もっと若さを。

隆司もそうだった。

そして、
気づけば、
一兆円を持ちながら、
一人で夜景を見ている。

その時だった。

スマートフォンが再び震えた。

美和からだった。

『今度、時間ある?』

短い文章。

だが、
その文字を見た瞬間、
五十年以上前の昼休みが、
隆司の中で一気に蘇った。

体育館前。

春の風。

笑い声。

胸を張って笑う少女。

世界は、
あの日から、
まだ終わっていなかった。

第六話 最初のデート

神谷隆司が初めて美和と二人で出かけたのは、高校二年の秋だった。

駅前には、
まだ昭和の匂いが残っていた。

古い喫茶店。

レコード屋。

映画館。

アーケード。

夕方になると、
焼き鳥の煙と排気ガスが混ざった空気が街を漂う。

待ち合わせの三十分前、
隆司はもう駅前にいた。

落ち着かなかった。

何度も時計を見る。

髪を触る。

意味もなく自販機で缶コーヒーを買う。

当時の隆司は、
今みたいな自信など持っていなかった。

金もない。

経験もない。

女に慣れてもいない。

ただ、
美和が好きだった。

それだけだった。

改札から美和が出てきた瞬間、
周囲の景色が少し明るくなった気がした。

白いセーター。

細い手首。

少し茶色がかった髪。

「待った?」

美和が笑う。

「いや、今来た」

嘘だった。

一時間近く前からいた。

だが、
そんなことを正直に言えるほど、
まだ大人ではなかった。

 

 

二人は駅前を歩いた。

最初はぎこちなかった。

何を話せばいいか分からない。

沈黙が怖い。

しかし美和は、
不思議と沈黙を苦痛にしない女だった。

「神谷ってさ」

「ん?」

「なんか、いつも難しいこと考えてるよね」

隆司は少し笑った。

「そうか?」

「そう。なんか、宇宙人みたい」

「なんだそれ」

「でも嫌いじゃないよ」

その言葉だけで、
隆司の心臓は一日中暴れ続けた。

喫茶店に入る。

薄暗い店内。

煙草の煙。

古い洋楽。

向かい側に座る美和。

隆司は、
コーヒーの味をほとんど覚えていない。

ただ、
彼女の唇ばかり見ていた。

笑う時。

ストローを吸う時。

話す時。

女という存在の生々しさが、
すぐ目の前にあった。

隆司は時々、
怖くなった。

自分は、
この生き物を一生理解できない気がした。

 

 

なのに、
どうしようもなく惹かれている。

美和はケーキを食べながら、
急に真顔になった。

「神谷ってさ」

「ん?」

「将来、お金持ちになりそう」

「なんで?」

「なんとなく」

美和は笑った。

「でも、なんか寂しいお金持ち」

その言葉に、
隆司は一瞬、
妙な寒気を覚えた。

未来を見透かされた気がした。

もちろん、
高校生の美和にそんなつもりはない。

ただの冗談だったのだろう。

だが、
その言葉は、
六十五歳になった今でも、
隆司の胸に残っている。

店を出たあと、
二人は川沿いを歩いた。

夕暮れ。

赤く染まる空。

風が少し冷たい。

美和が突然、
隆司の手に触れた。

本当に軽く。

しかしその瞬間、
隆司の世界は止まった。

女の手は、
こんなにも柔らかいのかと思った。

同時に、
恐ろしかった。

もしこの手を失ったら、
自分は壊れる気がした。

その時、
隆司は初めて理解した。

恋愛とは、
幸福ではない。

依存だ。

執着だ。

もっと言えば、
生命が別の生命に飲み込まれていく感覚だ。

だから人は狂う。

だから、
何十年経っても忘れられない。

美和は、
夕焼けの川を見ながら言った。

「ねぇ」

「ん?」

「神谷って、ずっと変なこと考えてそう」

「……変なこと?」

「うん。世界の秘密とか」

隆司は笑った。

「考えてるかもな」

「やっぱり」

美和も笑った。

その笑い声を聞きながら、
隆司は思った。

この瞬間が、
一生続けばいいのに。

だが、
人生は、
永遠に続く夕暮れではない。

そのことを、
彼はまだ知らなかった。

第七話 広告の世界

神谷隆司がテレビを捨てたのは、三十八歳の時だった。

まだ娘たちは小さい。

香織は小学校低学年。
真奈は幼稚園。

夕食時になると、
家族四人で狭いリビングに集まった。

その頃はまだ金も今ほど無かった。

中古マンション。

少し古いソファ。

傷だらけのテーブル。

だが、
今思えば、
人生で最も「現実」が濃かった時代だった。

ある夜、
隆司はテレビを見ながら、
急に気分が悪くなった。

CM。

ニュース。

バラエティ。

画面の向こう側から、
無数の「不足」が流れ込んでくる。

お前はまだ足りない。

もっと稼げ。

もっと若くなれ。

もっとモテろ。

もっと勝て。

もっと不安になれ。

そう叫ばれている気がした。

その瞬間、
隆司は気づいた。

世界は、
人間の思考を奪い合っている。

広告の本当の目的は、
商品を売ることではない。

人間を「不足状態」に固定することだ。

不足感を持った人間は、
永遠に消費する。

永遠に焦る。

永遠に他人と比較する。

だから、
社会は人間を静かに不幸へ誘導する。

 

 

隆司は突然立ち上がった。

「え、どうしたの?」

美和が驚いた顔をする。

「これ、もういらない」

そう言って、
隆司はテレビのコンセントを抜いた。

「は?」

「うるさいんだよ」

「何が?」

「全部」

美和は呆れた顔をした。

「また始まった」

その言い方には、
少し笑いも混ざっていた。

昔から隆司は、
時々こういうことを言い出す男だった。

世界は幻想だ。

思考が現実を作る。

人間は洗脳されている。

そんな話を真顔でする。

普通の男なら、
妻に引かれて終わりだろう。

だが美和は、
完全には否定しなかった。

理解していたわけではない。

ただ、
隆司の「変さ」を、
どこか面白がっていた。

「で、テレビ捨ててどうすんの?」

「静かになる」

「それだけ?」

「それだけで十分だ」

隆司は本気だった。

その日から、
彼は意識的に「他人の思考」を遮断し始めた。

ニュースを見ない。

ワイドショーを見ない。

愚痴ばかり言う人間と距離を置く。

そして、
自分の内側の声を観察した。

すると分かってきた。

人間は、
自分の思考だと思っているものの多くを、
他人から植え付けられている。

親。

学校。

会社。

広告。

SNS。

世界は、
他人の欲望で溢れている。

だから、
本当に自分が欲しいものが分からなくなる。

 

 

隆司はノートを書き始めた。

「俺は自由だ」

「俺は豊かだ」

「俺は運がいい」

「俺は若い」

最初は、
自分でも馬鹿みたいだと思った。

しかし、
不思議なことが起き始める。

偶然が増えた。

必要な人間と出会う。

仕事が繋がる。

金が流れ込む。

そして何より、
心が軽くなった。

不安が減ると、
現実まで変わる。

まるで世界そのものが、
自分の振動に反応しているみたいだった。

ある夜。

娘たちが寝たあと、
美和がキッチンで皿を洗っていた。

隆司は後ろから彼女を見ていた。

部屋着姿。

無造作に束ねた髪。

細い首筋。

結婚して何年も経っているのに、
時々、
彼女がまったく別の生き物に見える。

女という存在。

理解不能な宇宙。

美和は振り返らずに言った。

「ねぇ」

「ん?」

「最近、また顔変わったよね」

「顔?」

「なんか若返ってない?」

隆司は少し笑った。

「そうか?」

「うん。なんか気味悪い」

美和は笑いながら言った。

だが、
その声には、
少しだけ本気の戸惑いが混ざっていた。

隆司は知っていた。

思考は、
本当に肉体を変える。

人間は、
自分が信じている姿になっていく。

そして彼は、
まだ誰も知らない領域へ、
少しずつ足を踏み入れていた。

第八話 結婚

神谷隆司と美和が結婚したのは、二十四歳の時だった。

派手な式ではなかった。

小さな結婚式場。

親族中心。

安い料理。

少し古い白いドレス。

だが、
美和は綺麗だった。

隆司は式の最中、
何度も彼女を見ていた。

中学二年の昼休み。

体育館前で笑っていた少女が、
今、
自分の隣でウェディングドレスを着ている。

それが信じられなかった。

結婚後、
二人は小さなアパートで暮らし始めた。

六畳。

狭いキッチン。

薄い壁。

冬は寒く、
夏は暑い。

金は無かった。

だが、
不思議と幸福だった。

朝、
美和の寝顔を見る。

一緒にスーパーへ行く。

夜、
二人でカップラーメンを食べる。

そんな些細なことが、
世界の中心みたいに感じられた。

若い頃の隆司は、
本気で思っていた。

この幸福は永遠に続く、と。

だが、
現実は違う。

いや、
「現実」という言葉自体が、
すでに曖昧なのかもしれない。

隆司は時々思う。

 

 

人生には、
複数の流れがある。

ある世界線では、
自分たちは結婚していない。

別の世界線では、
もっと貧乏だった。

あるいは、
もっと幸福だったかもしれない。

だが、
少なくともこの世界では、
二人は愛し合っていた。

それは本当だった。

結婚して最初の冬。

夜中に目を覚ますと、
隣で眠る美和が小さく丸まっていた。

寒かったのだろう。

隆司は布団を引き寄せ、
彼女を抱き寄せた。

その瞬間、
美和が寝ぼけながら、
小さく笑った。

その柔らかさ。

体温。

匂い。

女の身体は、
男にとって、
時々あまりにも危険だった。

安心と欲望が、
同時に存在している。

だから男は、
女に溺れる。

そして同時に、
永遠に理解できない。

美和は目を閉じたまま言った。

「ねぇ」

「ん?」

「神谷ってさ」

「なんだよ」

「私のこと、好きすぎるよね」

隆司は苦笑した。

「悪いか」

「悪くない」

そう言って、
美和は再び眠った。

その横顔を見ながら、
隆司は思った。

自分は、
この女を一生失いたくない。

もし失えば、
世界の色が変わってしまう。

その予感だけは、
なぜか昔からあった。

 

 

翌朝、
美和は寝癖だらけの頭でキッチンに立っていた。

味噌汁の匂い。

焼き魚。

朝の光。

隆司はその光景を見ながら、
妙に泣きそうになった。

世界は、
こんなにも美しいのかと思った。

そして同時に、
怖かった。

幸福とは、
失う可能性を持った瞬間から、
恐怖へ変わる。

愛すれば愛するほど、
失う未来が現実味を持つ。

だから人間は、
完全には安心できない。

隆司は味噌汁を飲みながら、
ふと美和を見た。

彼女は窓の外を見ていた。

朝の光の中で、
その横顔は、
まだ中学時代の少女に見えた。

そして隆司は、
この時すでに、
どこかで気づいていた。

この幸福は、
永遠ではない。

人間は、
同じ人を愛し続けながら、
少しずつ別の存在になっていく。

それが、
結婚というものなのかもしれなかった。

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