淡く拭いきれない

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第1話 体育館前

六十五歳になった、でもあの日の光だけは少し異常だ。

いや、正確に言うと、光そのものではない。
光に照らされていた世界の方だ。

 

中二の六月だったと思う。
梅雨に入る直前で、湿気だけが先に来ていた。

 

昼休み。

校舎の空気は少し汗臭く、廊下にはなにか青臭い匂いが混ざっていた。
男子は騒ぎ、女子は固まり、教師は職員室に消えていた。

あの頃の学校というのは、小さな宇宙だった。

 

僕は体育館へ向かう途中だった。
バスケットボールでも借りようとしていたのかもしれない。
そのへんの記憶は曖昧だ。

ただ、体育館前の少し開けた場所に、

女子が数人集まって笑っていたことだけは、

異様にはっきりしている。

 

 

その中心に、彼女がいた。

後に僕の妻になる女だった。

もちろん、その時はそんなこと知るはずもない。

 

彼女は笑っていた。
本当に楽しそうに。

女子同士で何を騒いでいたのかというと、今思えば実にくだらない。

 

「私のほうが大きい」
「絶対うそ!」
「ほら見て!」

 

そんなことを言いながら、セーラー服に包まれた胸を張っていた。

そして、
「ホック外れる外れる!」
と騒いでいた。

 

今なら、そんな場面だけ切り取れば、ただの馬鹿っぽい思い出だ。

でも違った。

あの瞬間、僕は人生で初めて、

「ああ、女って、生き物として違うんだ」

と思った。

 

胸がどうとか、そういう単純な話ではなかった。

熱量だった。

命の勢いみたいなものだった。

 

男子だけで閉じていた世界に、

突然、別の色彩が流れ込んできた感じだった。

 

彼女はまだ、自分がどれほど眩しい存在かは知らなかった。

そこがまた凄かった。

無邪気だった。

計算なんて何もない。

ただ、自分たちの身体が変化していくことを面白がっているだけだった。

なのに、その無防備さが、世界そのものを変えてしまうくらい強烈だった。

 

僕はその時、自分の人生が少しズレた気がした。

いや。

始まったのかもしれない。

今思えば、あの日からだ。

 

世界を

「固定された物体」ではなく、
「流動する何か」
として感じ始めたのは。

光も、
空気も、
彼女の笑い声も。

全部が振動しているように思えた。

 

最近、僕は時々考える。

一兆円超の資産を作ったことも
若返っていったことも

全部、
あの日の延長だったのではないかと。

 

僕は世界を書き換えたかったのではない。

たぶん。

もう一度、
あの昼休みの続きを見たかっただけなんだと思う。

第2話 夏の湿気

中学時代の記憶というのは、不思議と映像より先に匂いで来る。

夏前の湿気。

ワックスの乾ききっていない廊下。

古い木造校舎の熱。

少し酸っぱい体操服。

そして、彼女の髪から時々流れてきた、シャンプーの匂い。

六十五歳になった今でも、それらは急に戻ってくる。

 

 

高層マンションの四十二階。
窓の外には大阪の夜景が広がっている。

若い頃に想像していた「成功者の部屋」に、僕は今たしかに住んでいる。

資産は一兆円を超えた。

身体も妙に若返っている。
医者は首を傾げるが、僕自身はそこまで驚いていない。

 

世界は固定されていない。

そう思って生きてきた。

肉体も、
時間も、
現実も。

人間が「そうだ」と認識しているから、そう見えているだけだ。

僕は長い時間をかけて、その認識を少しずつ書き換えてきた。

だが、それでも・・・

六月の湿った空気の記憶には勝てない。

 

あの頃、彼女は本当によく笑った。

男子に媚びるような笑い方ではない。

世界そのものが面白くて仕方ない、という笑い方だった。

だから周囲の空気まで変わった。

彼女がいる場所だけ、少し明るかった。

大げさではなく、本当にそうだった。

 

僕は教室の後ろの席から、ぼんやり彼女を見ていた。

話しかける勇気なんてなかった。

ただ見ていた。

それだけで、一日が少し特別になった。

 

今の若い人たちは、
「推し」
なんて言葉を使うのかもしれない。

でも、あれはもっと原始的だった。

憧れというより、
衝撃だった。

「こんな存在がこの世にいるのか」という。

 

僕はその頃から、世界を少し疑い始めた。

本当にこれは、ただの物質世界なんだろうか、と。

なぜ彼女が笑うだけで、空気まで変わるのか。

なぜ夏の光は、あんなに胸を締めつけるのか。

説明できないものが、世の中には多すぎた。

いや

説明できないもののほうが、本当は大事なのかもしれなかった。

 

スマホが震えた。

次女からLINEだった。

『熱中症気をつけてね』

短い文章。

それだけだった。

それなのに、なぜか少し泣きそうになった。

 

人間の幸福なんて、本当に曖昧だ。

お金があっても孤独な夜はある。

若返っても、戻れない時間はある。

でも

娘からの短いLINEひとつで、
世界が少し柔らかくなる瞬間もある。

 

だから最近は思う。

絶対的な幸福なんて、たぶん存在しない。

それでも

「ああ、悪くないな」と思える夜があるなら、
人生は、それで十分なのかもしれない。

 

第3話 世界にはこんな女がいる

中学二年の頃、

僕はまだ「女」という存在をよく知らなかった。

 

もちろん、知識としては知っている。
クラスにも女子はいるし、テレビにも出ている。

でも、それはどこか遠い存在だった。

 

男子だけで馬鹿みたいに騒いで、
汗臭いまま走り回って、
未来なんてぼんやりしていて。

世界は平面だった。

 

そこに彼女が現れた。

いや、実際には同じクラスにいただけだ。
突然転校してきたわけでもない。

なのに、ある日を境に、
彼女だけ輪郭が変わった。

 

女子というより、
「女」という感じがした。

その違いを、当時の僕はうまく説明できなかった。

たぶん今でも完全には説明できない。

ただ、生命力だった。

 

 

笑う時、
彼女は全身で笑った。

怒る時も、
本気で怒った。

机に突っ伏して笑い転げることもあったし、
友達とくだらないことで喧嘩もした。

感情が全部、生きていた。

だから見ているこっちまで、
妙に胸が熱くなった。

 

ある日、放課後の教室で、
彼女が窓際に立っていた。

西日が差し込んで、
髪が少し茶色く見えた。

ただそれだけなのに、
僕はしばらく動けなかった。

世界が止まったみたいだった。

 

後年、僕は色々な場所へ行った。

ニューヨークの高級ホテル。
ドバイの夜景。
モナコの海。

どれも綺麗だった。

でも、今でも時々思う。

本当に世界が美しかったのは、
あの西日の教室だったんじゃないか、と。

 

人間の感受性というのは不思議だ。

年を取ると知識は増える。

金も増える。

経験も増える。

でも。

「世界に初めて触れた感覚」

だけは、
あの頃にしかない。

 

最近、僕は時々思う。

若返りというのは、
肉体の話じゃないのかもしれない。

本当に若いというのは。

世界を見るたび、
驚けることなんじゃないか。

彼女を見ていた頃の僕は、
毎日少しだけ世界に驚いていた。

 

第4話 帰り道

彼女と初めて二人で帰った日のことを、僕は妙に覚えている。

恋人同士だったわけじゃない。

たまたまだ。

部活が休みで、
帰る方向が同じで、
なんとなく並んで歩いただけ。

ただ、それだけだった。

 

夕方だった。

夏前の空気はまだ明るく、
アスファルトの熱だけが残っていた。

 

彼女は自転車を押しながら歩いていた。

「あっついねー」

と言って、
制服の襟をぱたぱたさせていた。

 

その仕草を見ているだけで、
僕は緊張していた。

会話なんてほとんど覚えていない。

 

テレビの話だったか、
先生の悪口だったか。

本当にくだらないことだったと思う。

でも、
並んで歩く速度だけは覚えている。

 

 

人間には、
「この速度が心地いい」
というものがある。

彼女と歩く速度は、
不思議なくらい自然だった。

沈黙も苦しくなかった。

 

途中、小さな川沿いを通った。

夕陽が水面に反射していた。

彼女は急に立ち止まり、
川を見ながら言った。

 

「なんかさー」

「この時間って、ずっと続きそうじゃない?」

僕はうまく答えられなかった。

でも内心、
本当にそう思った。

 

あの頃は、
時間が終わるなんて想像できなかった。

青春は永遠ではない、
なんて言葉も知らなかった。

ただ、
明日も来週も来年も、
この空気が続く気がしていた。

 

もちろん、終わった。

全部終わった。

中学も、
青春も、
結婚も。

娘たちは大人になり、
彼女とは離婚し、
僕は六十五歳になった。

 

それでも・・・

時々、
高層マンションの窓から夕焼けを見ると、
あの帰り道が重なる。

不思議なものだ。

 

人間は過去を思い出しているつもりで、
本当は今も、
その時間の中に少し住んでいるのかもしれない。

 

僕は昔から、
時間は一本線ではない気がしていた。

過去は消えていない。

認識できなくなっているだけだ。

だから、
夕焼けを見ると、
中学二年の僕がまだどこかにいる感じがする。

 

彼女の隣を歩いている。

何も持っていない。

金もない。

未来もわからない。

 

でも、
世界だけは確かに輝いている。

あれも、
ひとつの幸福だった。

 

 

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